2016年03月15日
第74回 「黄金の 夕日を浴びて 父と子が 小鰹一尾 棒につりゆく」

先週までの連想ゲームにくぎりをつけ、カママ嶺からようやく移動しましたが、門外漢がそれっぽくお届けする歌碑シリーズは、まだまだ続きます。ということで、今回は垣花良香の短歌です。
建立されている場所は短歌の雰囲気にマッチした佐良浜の港。給油所から大主神社に向かう途中にある小さな橋(現在は埋め立てにより橋の名残のみ)の脇の植え込みにあります。

歌碑の説明によると
「この短歌は昭和五十一(1976)年五月九日に執りおこなわれた明治神宮春の大祭において入選献詠(けんえい)された曽(かつ)ての佐良浜漁師の生活を象徴的に歌い上げた名作たある」とありました。
(西暦とよみがなを加筆)
確かに今一度、短歌をじっくりと読み直してみると、夕陽を浴びた父子がカツオをかついで家路につくなにげない日常を歌っており、港町・佐良浜の情景が浮かぶ趣きのある短歌だと感じました。
ところで、この初句の“黄金の読み”ですが、“こがね”や“おうごん”ではなく、おそらく字数的な意味や歌の雰囲気を考えると、“たそがれ”と詠むのではないかと浅慮しましたが、それならば“黄昏”と書くのではなかろうかと至り、にかわ仕込み感を露呈して霧中に消えます。好事家の皆さんの解釈やいかに。
そんなこんなで歌は門外ですが、もうひとつ気になった点を折角なので重ねておきます。
歌碑のある佐良浜漁港は東を向いた崖地の下に位置する港で、西側は高い崖に遮られており、港が夕陽を浴びるイメージがほとんどありません。ただ、良香の勤めていた佐良浜小学校は崖の上にありますので、夕陽が差し込むの情景は、あながち間違ではないといえますが、無粋な突っ込みはこのへんで止めておきます。


さて、この三十一文字(みそひともじ)の短歌を詠んだ垣花良香(かきはなりょうか・かきのはなりょうか)ですが、1906(明治39)年生まれ(1993年没)の多良間島出身の教育者でした。
あまり細かいことまでは調べ尽くせませんでしたが、手がかりとして浮かび上がった、「多良間島の両生爬虫類について」という県博の紀要(千木良芳範)に、「昭和二七年八月、夏休みを利用し西辺小中学校の中学生が多良間旅行に来島した」という記述があり、多良間出身の校長の意向が反映している様子が判るエピソードが読み取れました(本題とはことなるが、蛙がいない多良間に土産としてヌマガエルを持ち込んだという話がまた興味深い)。
そこで西辺中学の校史を紐解いてみると1952年4月に校長(第4代。代々の校長と同様に小学校兼任となっているものの、なぜか良香だけは小学校の校長としてはカウントされていない)に着任するも、わずか4か月(7月20日)で西辺を去っていました。歴代校長の任期についてのみの資料なので移動の理由ついてなどは一切不明ですが、生徒が多良間旅行に向かったタイミングでは、もう学校にはいなかったことになります。
では、どこに移動したのだろうかと島内の学校を探してみると、上野小学校の第20代校長を1952年7月から勤めていました(2年9ヶ月)。その後も、第19代砂川小学校校長(1955年4月~1960年3月)、第19代佐良浜小学校校長(1960年4月~1968年3月)と歴任し、故郷の多良間小学校で第26代校長(1968年4月~1971年3月)を最後に退職します。
その後、良香が那覇へ転居する際に有志と一族が資金を出して、1980年に歌碑を建立しました。
もうひとつ面白いのは、1944(昭和19)年に台湾で発行された幻の本、「南島」第三輯(だいさんしゅう)に、良香は「多良間島雑記」と題したものを寄稿しているのです。この「南島」は金曜コラムの「続・ロベルトソン号の秘密」(第三話/江崎論文)にも登場していますが、時代ゆえに日本に沖縄に届かなかったという曰くがあります。また、この「南島」を作っていた須藤利一は、同じく金曜コラムの「島の本棚」(5冊目)でも紹介した、「宮古史伝」を私家版として復刻しています(新版の解説に1934年に少部数のみ作った非売品と記述がある)。
「多良間島雑記」の中身もとても気になりますが、インターネットもない時代から宮古ネットワークというか、宮古のつながりの広さと深さと凄さに改めて驚嘆し感銘すら覚えるのでした。
Posted by atalas at 12:00│Comments(0)
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