2015年07月17日
『続・ロベルトソン号の秘密』 第三話

ある方から、「続ロベ」という略称までいただくようになった「続・ロベルトソン号の秘密」。あまり小難しい話はやめて、気軽に読めるよう、順風満帆に航海したい、と思ってはいるものの、ついついニッチな話題にはまり込み、八重干瀬に座礁する異国船の如く(?)抜け出せなくなってしまいます。そんなわけで、今回も風まかせに航海を進めて、太平山を目指したいと思います。

あまりに突拍子のないつながりに、驚かれた方もいると思いますが、「解体新書」とは、そう、小学校で習ったあの『解体新書』、オランダ語の本『ターヘル・アナトミア』の翻訳書のことです。これと博愛記念碑とが、江崎先生を介して繋がる、というのだから面白いものです。
そもそも江崎悌三氏は、本来の理系の研究者、詳しくは昆虫の研究者でいらっしゃいました。例えば『日本大百科全書(ニッポニカ)』の解説によれば、
江崎悌三(えさき・ていぞう、1899-1957)とあり、その道ではかなりの泰斗であったことが窺われます。では、なぜ「ロベルトソン号」の史実と関わって来るのか、という謎なのですが、それを解くカギが、九州大学附属図書館のホームページに記載の彼の年譜にありました。
昆虫学者。東京に生まれ。1923(大正12)年、東京帝国大学理学部動物学科卒業。同年九州帝国大学助教授。1924(大正13)年、昆虫学研究のためヨーロッパに出発。1928(昭和3)年帰国。1930(昭和5)年、九州帝国大学教授、理学博士の学位を受ける。
その後、九州大学農学部長、教養部長、日本学術会議会員、日本昆虫学会会長、日本鱗翅(りんし)学会会長などを歴任した。水生半翅類分類の世界的権威で、国際昆虫学会議常任委員として国際的に活躍。昆虫全般、動物地理学、動物関係科学史にも造詣が深く、全国の昆虫研究者の尊敬と信頼を集めた。水生半翅類の分類のほか、日本とその近隣のチョウ、ミクロネシアの動物相、ウンカの生態などの研究に貢献が大きい。
『日本昆虫図鑑』『動物学名の構成法』『土壌昆虫の生態と防除』『太平洋諸島の作物害虫と駆除』などの著書がある。(コトバンクより)
江崎悌三博士年譜そう、先生のご夫人は、在外研究中に知り合ったドイツ人ということで、江崎先生もかなりドイツ語に堪能だったようです。彼が『南島』第3輯に掲載した論文で、ドイツ語資料をフル活用できた理由も、この辺にあったようです。他方で、江崎氏と宮古島の出会いについては、まだ詳細はわかっていないのですが、おそらく昆虫研究の一環で宮古島を訪れた際に、ロベルトソン号の史実に出会い、このテーマを自身のドイツ語力を駆使して掘り下げてみよう、と考えた、といったところではないでしょうか。
1899年 東京に生まれる
1923年 東京帝国大学理学部動物学科卒業。
九州帝国大学農学部助教授に着任
1924年 昆虫学研究のため、渡欧
1928年 ドイツにおいてシャルロッテ・ヴィッテと結婚する。
在外研究より帰国
1930年 九州帝国大学教授に任ぜられる
1948年 九州大学農学部長に補される(-1950)
1950年 動物命名法国際委員会委員に選ばれる
1951年 日本昆虫学会会長に就任。以後、没年まで歴任する。
1955年 九州大学教養部長を命じられる(-1957)
1957年 肺癌のため、福岡県大宰府町(現太宰府市)の自宅で逝去。
享年58歳。勲二等に叙し、瑞宝章を授かる。
特旨を以って正三位に叙せられる。
(九州大学付属図書館 江崎文庫より)
江崎先生は、1936(昭和11)年11月の「博愛記念碑60周年式典」にも出席していますが、その時はドイツ側来賓のトラウツ博士と共に、福岡から空路で(!)那覇へ入り、その後大阪商船の「湖北丸」で宮古に向かっています。復路も、那覇までは同一行程だったことが確認できています。ですから、トラウツ夫妻にとって、ドイツ語の堪能な江崎教授の存在は心強かったと思いますし、江崎氏にとっても、帰国後なかなかドイツ語を話す機会のなかった日本で、ドイツ人と旅を共にするよい機会に恵まれたと言えそうです(もっともトラウツ夫妻には、他に通訳として京都大学出身の津田さんという方も同行していていますが)。
なお、夫人の江崎(旧姓Witteヴィッテ)シャルロッテさんについては、興味深い数々の逸話が、あるブログでアップされていますので、こちらをご覧下さい。
江崎悌三夫人・シャルロッテ/かささぎの旗
例えば江崎氏が
一年間、三百六十五日シャルロッテさんに恋文を送り「東洋の果てに一人娘はやられん」という父親をくどいて、出身地の西独ウェストファーレン州ヘルフォルト市で挙式
という下りなど、二人の一途さが伝わってきます。あるいは、シャルロッテさんが「日航の操縦士を務める息子が人質に取られても、本人は少しも騒がず、大阪万博を見物」というのも、すごい肝の座りようで、なかなかの真似できるものではありません。
さて、江崎夫妻については別のブログにお譲りして、解体新書に話を近づけましょう。江崎氏は、「乙骨太郎乙」(おつこつ・たろうおつ)という幕末・明治初期の蘭学者の孫なのですが、この乙骨は、彼が師事する杉田成卿(すぎたせいけい:1817-1859)の娘「つぎ」と結婚しています。杉田成卿は玄白の孫に当たるため、「つぎ」は玄白の曾孫になります。つまり江崎先生の祖父が乙骨太郎乙、祖母が「杉田つぎ」となり、杉田玄白から見ると、江崎は5代目の子孫ということになります。
乙骨太郎乙(おつこつ・たろうおつ、1842-1921)ここで改めて、杉田玄白先生とその業績を振り返っておきたいと思います。杉田玄白は1733(享保18)年、若狭(現在の福井県)小浜(おばま)藩の蘭方医の子として江戸牛込の藩邸で生まれ、1753(宝暦3)年に父と同じく小浜藩の藩医となります。数え年39歳の1771(明和8年3月4日(旧暦)、江戸千住骨ケ原(小塚原)で前野良沢(まえの・りょうたく)、中川淳庵(なかがわ・じゅんあん)らと共に、腑分け(ふわけ、つまり解剖)に立ち合います。これがもとで彼は、『ターヘル・アナトミア』と当時日本で呼ばれていた解剖学書の翻訳を思い立ち(一説には翌日から着手)、前野、中川と3年間の訳業に取り組み、1774(安永3)年、『解体新書』刊行に漕ぎつけたのです。
幕末・明治時代の英学者、翻訳家。天保13年生まれ。乙骨耐軒(たいけん)の長男。杉田成卿(せいけい)に蘭学・英学を学び、その娘つぎと結婚。元治(げんじ)元年開成所の教授手伝並出役となる。明治元年沼津兵学校教授。11年海軍省御用掛となり、翻訳に従事した。大正10年7月19日死去。80歳。江戸出身。名は盈(えい)。号は華陽。
さて、以上の経緯には、宮古やドイツとの関わりで特に興味深いふたつの点があります。ひとつ目は、玄白先生が解剖に立ち会った日付。敢えて旧暦で明和の元号を使ったので、ピンときた人もあるかもしれませんが、実はこの6日後の明和8年3月10日に、後に「明和の大津波」と名付けられた津波の元凶となった「八重山大地震」が発生しています。偶然のこととはいえ、玄白と宮古の間に何か縁を感じてしまいます(当時の琉球は中国の暦を使っていたため、乾隆36年となります)。
そして二点目は、玄白らが翻訳した『ターヘル・アナトミア』が、実はヨハン・アダム・クルムス(Johann Adam Kulmus, 1689-1745)というドイツ人の書いた解剖学書Anatomis
che Tabellen(『解剖図譜』)のオランダ語版Ontleedkundige Tafelen(ontleedkungigは「解剖学の」、tafelは「表、一覧」)だったこと。翻訳の翻訳を重訳(じゅうやく)と言いますが、玄白らは、オランダ人医師ヘラルド・ディクテン(Gerard Dicten)がドイツ語から訳したオランダ語版からの和訳をすることで、クルムスの著書を重訳していたことになります。なおディクテン訳による『ターヘル・アナトミア』原書(Ontleedkundige Tafelen)は、デジタル版が公開されています。
《第三金曜担当》 ツジトモキ
1978年 愛知県岡崎市生まれ。M大学農学部専任講師
ATALASネットワークにおける、独逸マイスターである(暫定)。
Posted by atalas at 12:00│Comments(0)
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