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2017年03月17日

『続・ロベルトソン号の秘密』 第二十三話 二度目の那覇とトラウツ主宰の夕食会

『続・ロベルトソン号の秘密』 第二十三話 二度目の那覇とトラウツ主宰の夕食会

本題に入る前にまず、過去の記事の訂正からしたいと思います。トラウツ博士一行の沖縄訪問に関して、第二十一話において、トラウツ博士は福岡で江崎悌三教授夫妻と合流し沖縄に向かったと記しましたが、この点について、今のところ江崎教授夫妻が同行したことを示すデータがないので、現時点では江崎夫妻はどうやら同行していなかった、と結論付けたいと思います。一行の足取りを追った新聞記事や乗船記録などを見ても、江崎夫妻の名前がどこにも登場しないからです。ただそうなると、なぜ一行は大阪から那覇へ直接向かわず、わざわざ福岡まで鉄道で向かい、江崎夫妻の出迎えを受けた後に(江崎夫妻を福岡に残して)空路で那覇に向かったのか、という疑問が残ります。この点は後日また改めて検討していきたいと思います。
『続・ロベルトソン号の秘密』 第二十三話 二度目の那覇とトラウツ主宰の夕食会
さて、宮古島を挙げてのお祭り、「博愛記念碑60年祭」(11月14日)とこれに関連する(+あまり関係のない?)各種の行事(13日から15日までの3日間、島の各所で行われた)、それに会食などに出席し、過密スケジュールをこなしてヘトヘトな状況で11月15日夕刻出航の湖南丸に乗り込んだトラウツ博士。翌16日の朝10時に那覇に戻ると、18日午後4時までの那覇滞在の時間をフルに活用して、またも精力的に動き始めます。まずは、この日の晩に行われる、トラウツ自らが主催する夕食会の準備(この食事会については後で述べます)。午後は、全て首里での予定で埋まっており、まず、尚家の一族に植物園を案内してもらった、と彼は報告書で述べています。この植物園の詳細について、また彼を案内した旧王族については、現在調査を進めているところですが、今のところ、琉球王国最後の王であった尚泰王の四男、松山王子こと尚順男爵が関係しているのではないか?と私は見ています。その後トラウツは、沖縄の教育者にして沖縄研究者の島袋源一郎氏(当時の肩書きは沖縄県教育会主事)の案内で首里城を見学し、さらに島袋氏が創設に携わったとされる博物館を訪問しています。

この日の夜7時から、トラウツ博士は、今回の沖縄訪問に際してお世話になった人を招き、那覇市内の旅館「三杉楼」で夕食会を催します。招待されたのは、外務省の二見孝平事務官、宮古支庁長の明知延佳氏、大阪球陽新聞の眞榮田勝朗氏,県教育会主事の島袋源一郎氏、沖縄県学務部長の佐藤幸一氏、下地玄信氏、那覇市長(当時の市長は金城紀光氏)の代理、それに報道関係者など、計18人。食事の内容は伝統的な琉球料理だったようで、島袋氏が方言も交えて各料理の解説を詳細に行ったところ、沖縄関係者も知らない情報が多くて驚いたそうです。食事の後には琉球舞踊のショーもあったのですが、島袋氏はここでも自ら三線を手にして曲を演奏するなど大活躍だったようです。
『続・ロベルトソン号の秘密』 第二十三話 二度目の那覇とトラウツ主宰の夕食会『続・ロベルトソン号の秘密』 第二十三話 二度目の那覇とトラウツ主宰の夕食会
翌11月17日は、まず泊にある、いわゆる「外人墓地」(または「ウランダー墓」。那覇で亡くなった欧米系の宣教師や使節団の団員が眠っている)を見学、さらに尚家の霊廟となっていた臨済宗の古刹、崇元寺も訪れています。その後は沖縄県立図書館を訪問したとされますが、当時の図書館の場所についてはまだ明らかではありません。昼食は、(大阪球陽新聞の)眞榮田勝朗氏の義父で那覇市職員の安慶名徳潤氏の自宅で、約20人の招待客らとともに豪勢な琉球料理のフルコースを味わっています。ここでも、昨晩同様に沖縄の歌や踊りが披露されたようです。

夜には、教員の団体が主催する講演会が開かれ、トラウツ氏は600人以上の聴衆を前にして日本語で講演を行いました。ここで彼は、自分が沖縄に来て抱いた印象について主に語り、最後に沖縄の人々から受けたもてなしへの感謝の気持ちで講演を締めくっています。さらに外務省の二見事務官による、日独の協力関係についての講演、そして下地玄信氏によるユーモアを交えた講演が行われ、最後にいくつかのドイツ映画が上映されて閉会となりました。

沖縄最後の滞在日となった11月18日、トラウツはお世話になった関係各所に挨拶に出向いたのち、旅支度を整え、午後4時に出航の大阪商船の湖南丸で那覇をあとにしました。

行きは福岡から那覇まで、3時間と少しのフライトでしたが、帰りの湖南丸は予定より6時間も遅れて、一行は11月21日の午後2時に神戸港に到着。まる三日近くかかる長い船旅となりましたが、こうして足掛け13日間に及ぶ宮古への旅行は終了したのです。

以上、ここまで三回に分けてトラウツ氏の那覇・宮古訪問をじっくりと追って来ました。いかがだったでしょうか?トラウツ博士の報告書を読んでいると、沖縄への愛着が感じられますが、同時にこのお祭りにかける下地玄信の心意気も伝わってきます。とはいえこの行事、その直後に締結された日独防共協定(1936年11月25日に締結)の前夜祭としての役割を担っていましたし、「修身」の教科書に取り上げられた「博愛」のお話が、自己犠牲の精神を生徒に浸透させる役割も持っているなど、その後の歴史を知る後世の私たちが見ると様々な問題を孕んでいたこともわかります。そして実際にトラウツ博士も、ドイツ大使館に対し、単に「感動しました」と伝えたわけではなく、この行事を巧みに利用しているという日本側の狙いを見抜き、事の本質を突いた報告も行っていました。

そんなわけで、ドイツ商船遭難救助という1873年のひとつの出来事を出発点に、様々な利害が絡んでは次々と石碑が生まれていくわけですが、次回は第二次世界大戦後の「博愛」美談のゆくえ、またさらなる石碑の建立の過程についても見ていきたいと思います。



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