2016年10月21日
『続・ロベルトソン号の秘密』 第十八話「激動の宮古と忘れられかけた石碑」

安定した航海の後,朝9時頃,黒い雨雲に包まれた中に島が見えた。そのため船は嵐を避けるべく,航路を少しばかり後方に戻した。船はようやくサンゴ礁の岩層をぬって入港し,宮古島の中心地である平良の沖の停泊地に錨を降ろした。赤い「友好の旗」, 日本の旗, ドイツの旗,それに布地でできた紅白の飾りを掲げた大きめの舟が4,5隻こちらにやって来た。それらは小型の漁船で,この時期はほとんど漁を休んでいたので,空いていたのだった。船から桟橋までの区間は競艇に利用された。岸辺では,島の名士たちや何千人もの児童・生徒と青年団による出迎えを受け,彼らは独日の国旗を振りながら万歳と叫んだ。さらに平良の町とその周辺の住民もみな来ており,彼らは非常に日焼けした人々で,ほとんど誰もが親しげな表情をしており,一部の人々は優美でまっすぐな体格で,背が小さいことはほとんどなく,整った顔つきをしていた。これは、今からちょうど80年前、1936(昭和11)年に宮古島を訪問したドイツ人日本学者、フリードリヒ・マクシミリアン・トラウツ(Friedrich Maximilian Trautz, 1877-1952)が宮古に到着した時の様子を記したものです。彼の宮古訪問の目的、それは「獨逸皇帝感謝記念碑建立六拾周年記念式典」(以下「60周年式典」と略)への参列でした。「獨逸皇帝感謝記念碑」とはもちろん、こんにち「博愛記念碑」と呼ばれている、あの1876(明治9)年建立の石碑のこと。その建立60周年のお祝いに、トラウツは駐日ドイツ大使の代理、つまりドイツ政府代表として、はるばる京都からやって来たのです。

この「60周年式典」が挙行された背景には、宮古内外の人々による「事績顕彰運動」、つまり宮古島民によるドイツ商船救助の行為を称えようとする動きに加え、当時の世界情勢をも意識した様々な利害や思惑がありました。ですからこの式典は、単なるおめでたい行事と片付けられない、周到に準備された政治的なイベントでもありましたし、それゆえに、南の島での小さな出来事にとどまらない影響力も持っていました。
今月から始まる「続ロベ 第二幕」では、この「60周年式典」でクライマックスを迎える主に1930年代までの宮古島(及び関西の宮古出身者)の動向に着目し、ドイツ皇帝が半世紀以上前に送った石碑が「博愛記念碑」として新たに意味づけられ、美談化されて宮古の人々のアイデンティティーの一部に取り入れられ、さらには「修身」の教材としても取り入れられていく様子を紹介していきます。
なお、冒頭で紹介した宮古到着の記述を含めて、トラウツがドイツ大使館に送った宮古出張の報告書の全文(ツジによる日本語訳)が『明治大学教養論集』509号(2015年9月/pdf)に掲載されていて、こちらから読むこともできますので、さらに詳しく知りたい方はどうぞ。
さて、今回はまず、1870年代以降の宮古の歴史を振り返りつつ、ロベルトソン号の漂着やドイツ皇帝の記念碑の建立にまつわる史実が、島の人々にどう記憶ないし記録されていったのか、またはいかなかったのか、を考えてみましょう。
1873年のロベルトソン号漂着と、1876年の記念碑建立について、島ではこれらが史実として認知され、記憶が継承されてきたのか、という点について、今回は先に結論を言ってしまいます。と言っても、あまり白黒がはっきりしない玉虫色の答えで恐縮なのですが、
・ある一定の人々の間には知られ、記録もされてきたが、そこまで有名ではなかった(知らない人も多かった)。
と言うところに落ち着きそうです。
この点に関して、例えば『南島』(1944〔昭和19〕年発行、1969〔昭和44〕年復刊)に「宮古島のドイツ商船遭難救助記念碑」を投稿して一連の史実をまとめた江崎悌三氏は、島民の間で忘れられてしまった石碑が、その「再発見」により脚光を浴びたと述べています。
それによると、ロベルトソン号救助の史実と記念碑について「日本では全く忘れられていた――と言うよりもむしろはじめから知られずにいたので、現地宮古島の人達の間でさえ、若い人達からは忘れられてしまっていた」(江崎:「宮古島のドイツ商船遭難救助記念碑」、『南島』71頁)とのこと。そして江崎氏は、自らが聞き伝えたことと、新聞等で報じられたことをもとに、記念碑の存在が脚光を浴びるに至った経緯をこう紹介しています。
昭和四〔注:1929〕年、日本勧業銀行那覇支店長でもあった松岡益雄氏が、宮古島へ旅行した際拓本蒐集の趣味から右記念碑〔注:ドイツ皇帝の石碑〕を発見、事績を知るに及んで之の顕彰運動を起した。即ち氏は沖縄県教育会と諮り実行に着手したのであった。沖縄県宮古郡教育部会に於ては、宮古支庁に保存された古文書や古老の談話から資料を蒐集した(前掲書、72頁。注は引用者。また一部旧字の表記を改めた)。
つまり、島民の間で忘れられていた石碑が、拓本をとった内地の人の手によって再発見された、と言うのです。
しかし、既に「続ロベ」第一話でも紹介した通り、実は石碑の存在が全く忘れられていたわけではないことが、仲宗根將二先生の指摘により明らかになっています。それによると、富森寛卓の『郷土史』(1910〔明治43〕年)をはじめ、比嘉重徳の『宮古の研究』(1918〔大正7〕年、またこれに『八重山の研究』を合冊・増補した1924〔大正13〕年の『先島の研究』)、さらに宮古島初の通史として名高い慶世村恒任の『宮古史伝』には、いずれもドイツ皇帝の石碑に関する記述が載っているとのこと。実際に私も、比嘉重徳『宮古の研究』に当たりましたが、その27-28ページには「第九節 小屋毛の石碑と獨逸」という見出しで、石碑建立の経緯と、中国語の碑文の写しが記載されています(写真を参照)。
こうした点から、どうやら島の歴史に興味のある一定数の人々の間では、ロベルトソン号の救助の史実や、記念碑の存在が認知されていたことがわかります。その一方で、松岡氏が拓本をとって史実を知ったという江崎氏の指摘からは、石碑のことを知らなかった人も多かったであろうことも伺えます。おそらく松岡氏は、石碑を見つけた際、その由来を知るべく、まずは手っ取り早く島の人たちにどんな石碑なのかを尋ねたでしょう。しかし(江崎氏によれば)松岡氏は拓本を手がかりに史実を知ったわけですから、彼が尋ねた島の人々は、石碑の由来を答えられなかった、つまり一般の人々には石碑の存在が認知されていなかったことになります。
では、なぜ一部の人を除いて、ドイツ船救助の事績や、ドイツ皇帝による石碑建立の史実が忘れられてしまったのか、この点を次に考えてみましょう。この答えも先取りしてしまいますと、大きく三つ理由を挙げることができます。
・1870年代以降の宮古島では、既存の政治・社会体制を揺るがす大変革が起きた。
・宮古島民自身は、ドイツ船を救助したことを、それほど大した善行だとは認識していなかった。
・そもそも石碑を送ってきたこと自体に「有難迷惑」な面があったので、石碑に格別の思い入れもなかった(よって注意が払われなくなった)。
まず一点目に関して、ドイツ皇帝の記念碑設置(1876年)以降の宮古(および沖縄)の歴史を簡単に振り返ってみましょう。
琉球処分(1879〔明治12〕年)
琉球藩(1872年~)が廃止され、沖縄県が設置された。もっとも明治政府による旧慣温存策により、社会制度がすぐに大きく変わったわけではない面もあるものの、宮古を管轄する政府そのものが首里の王府から東京の明治政府に変わったという意味では非常に大きな変化。
サンシー事件(1879〔明治12〕年)
琉球処分に不満を持つ旧士族層が、明治政府が新設した派出所で働いていた下地利社を斬殺した事件。これに関しては、「博愛の島での私刑」及びその補遺でも詳しく扱われていますので、こちらをご覧ください。
普通教育の実施(1880〔明治13〕年)
明治政府の学制が宮古にも適用され、普通教育が始まった。
中村十作の人頭税廃止運動(1893〔明治26〕~1895〔明治28〕年)
真珠養殖を目的に宮古に来島した新潟県出身の中村十作が、那覇出身の製糖技師の城間正安や島民らとともに人頭税の廃止運動を起こした。西里蒲、平良真牛の島民二名や城間とともに上京した中村は、政界やメディアを通してこの問題を世に知らしめ、国会請願運動を起こした。「沖縄県宮古島々費軽減及島政改革請願書」は1895(明治28)年の第8回議会で採択され、1898(明治31)年からの土地整理事業(宮古では1899年から)を経て、最終的に人頭税は1903(明治36)年に廃止された。この運動については、こちらもご覧ください。
沖縄県への徴兵制の施行(1898〔明治31〕年)
土地整理事業の開始と共に、沖縄県で徴兵制が始まった。人頭税が継続中の宮古・八重山では一定の免除措置が取られたものの、宮古からも211人がこの年に那覇へ徴兵検査を受けに行っている。
人頭税廃止(1903〔明治36〕年)
宮古での土地整理事業が終了し、地租改正条例が宮古・八重山にもようやく適用され、人頭税が正式に廃止された。
「久松五勇士」の活躍(1905〔明治38〕年)
ご存じの方も多いと思いますが、日露戦争中の1905年5月、久松の漁師5人がサバニで石垣島に渡り、ロシアのバルチック艦隊が宮古島付近を通過したことを知らせた(当時宮古には電信施設がなかったため、直近の電信局のある石垣島に渡った)。この事実は昭和に入ってから「遅かりし一時間」と銘打ってマスコミでも取り上げられた(日本郵船の仮装巡洋艦「信濃丸」からのバルチック艦隊接近の報告より1時間遅かったとされたことによる。但し実際には「久松五勇士」の報告は「信濃丸」の報告より1日遅かった)。
選挙法改正を求めて宮古・八重山の島民代表が上京(1907〔明治40〕年)
宮古・八重山が選挙法から除外されていることに抗議して、両島の代表4人が上京し、選挙権の請願運動を行っている。なお宮古・八重山では、初の県会議員選挙が1909〔明治42〕年に、初の国会(衆議院)議員選挙は1920(大正9)年に実施されている(但しいずれも制限選挙)。
以上、ざっと見ただけでも、30年ほどの間に、島が激動の時代を迎えていたことがわかると思います。特に、人頭税廃止運動や選挙権請願運動からわかるように、島の政治と経済に直結する重要なテーマについて、島を挙げての大衆運動が盛り上がっていたのですから、異国船を救助したという過去の(些末に思える)出来事に人々の注意が向かわなくなったことも十分考えられるわけです。
これに関連して、次の理由である、島の人々自身はドイツ船救助を大した行為だと考えていなかった、という点も考えてみましょう。そもそも、異国船に限らず船が島に漂着した際に世話をすることは、琉球王府から指示されていたことでした。1723年(雍正元)年に王府が作成した異国船対応マニュアル「日本他領之船漂着之時御用帳」によれば、日本や外国の船舶が漂着した際には、船籍、乗組員の人数・出身地・宗旨、漂着に至る航路や経緯、積荷の内訳などを記録すること、また首里に急使を送って漂着の事実を報告し指示を仰ぐことになっていました。またこのマニュアルには、様々なケース(船の状態・船員の国籍や数・怪我人や死亡者の有無など)に応じて、現場がどう対処すべきかも記しています。さらに
・破船時には乗組員を収容し寝食を提供した後、首里に送り届ける
・漂着民を勝手に出歩かせない、地元の人間と接触させない
・もし接触する機会があっても、「大和琉球之様子」を教えてはならない
といった指示もあります。これまで見てきたロベルトソン号の乗組員に対する島の在番の対応も、この指示にほぼ従っていることがわかるでしょう(首里に送り届けずに官船を与えたり、ヌイチャンこと内間仁屋がエドゥアルトを寺に連れて行ったり、一緒に酒を酌み交わしたりといった「脱線」もありましたが…)。
こうして見ると、こんにち「博愛美談」とされるドイツ船救助の事績も、当時ロベルトソン号の救助に携わった当事者にとっては「王府のマニュアルに沿って対応しただけ」程度の意識だったのではないか、と容易に想像できるわけです。
こうした背景に、さらに三点目の理由が加わると、民衆の記憶から記念碑の存在が忘れられてしまっても仕方がない面がよりはっきりしてきます。石碑が忘れられた三つ目の理由、それは、ドイツが石碑を送ってきたこと自体に「有難迷惑」な面があったので、石碑への注意が向かなくなったというものです。
「第十四話」でも紹介した通り、ドイツ皇帝の記念碑の建立は、池間島からも応援を出すほど大掛かりな事業で、多くの島民が役人の指示を受けて、石碑の陸揚げや運搬や、設置場所の地ならしなどに駆り出されました。しかも、ドイツ皇帝からの記念品(望遠鏡や懐中時計)は、一部の役人に授けられたにすぎません。
もちろん、除幕式の当日(1876年3月22日。ドイツ皇帝ヴィルヘルム一世の誕生日)には、盛大な除幕式が執り行われ(ドイツ海軍による行進、花火の打ち上げ、フォン・ライヒェ艦長による演説などがあった)、当日は記念碑周辺が島民でごった返したと言われていますから、島の人々も、この遠来の客と珍しい石碑の建立を、好奇心いっぱいの眼で眺めていたことでしょう。とはいえ、そもそもこんな記念碑が送られてこなければ、面倒な作業をしなくてもよかったのも事実でしょう。そんなわけで、記念碑の除幕式と言うお祭りが終わり、その後の時代の変化の中で、記念碑に対する島の人々の意識は、急速に薄れていったのではないでしょうか。
というわけで、島の歴史に興味のある一部の人々と、彼らの郷土史研究の成果により、ドイツ皇帝の石碑は、一応は史実として伝えられたものの、大多数の島民のもとでは、その存在に意識が向かうことはなかった、というのが、リバイバル前の石碑をめぐる状況です。ではこの、一度は忘れかけられていた、ドイツ船救助・記念碑建立の史実が、昭和の時代に入ってからなぜ、またどのようにして脚光を帯びるに至ったのか、次回以降はこの点を考えて行きたいと思います。
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Posted by atalas at 12:00│Comments(0)
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