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2015年05月15日

『続・ロベルトソン号の秘密』 第一話

『続・ロベルトソン号の秘密』 第一話

Guten Tag, meine Damen und Herren!
原語読み (グーテン ターク、マイネ ダーメン ウント ヘレン)
日本語訳 「こんにちは、みなさま」
宮古口訳 「んーな、がんずぅしうらまんな」(意訳)

昨年9月、「第1回みゃーく市民文化センター」において、郷土史家の仲宗根先生と「ロベルトソン号の秘密」という題で「博愛記念碑」の話をさせていただいた、ツジでございます。今年度は第3週に、「続・ロベルトソン号の秘密」というタイトルで連載を担当します。よろしくお願いします。
『続・ロベルトソン号の秘密』 第一話
さて、「続」と言っても、そもそも「ロベルトソン号の秘密」って何?という方も多いと思いますので、今日は講座を聞き逃した方のための前座です。講座の内容を詳しく知りたい方は、こちらにレジュメをアップしますので参考にして下さい(レジュメはpdfファイルになります)。
なお、「博愛」のお話が教科書に採用されたプロセスについて、一部に誤りがありましたので、レジュメを一部訂正しました(引用元のデータが違っていたので、確認作業をして経緯を整理しました)。申し訳ありませんでした。

宮古出身の方、お住まいの方、興味をお持ちの方はきっと、俗に「博愛美談」と言われる一連のお話を聞いたことがあるかと思います。ドイツの難破船を宮古の人が救助して(1873年)、そのお礼にドイツ皇帝が石碑を贈って(1876年)、その60周年に合わせて大きな式典が開かれて、新しい石碑(「獨逸商船遭難之地」碑)が宮国に建てられて(1936年)、2000年にはドイツのシュレーダー首相(当時)が来島して、というやつです。

ですが、詳しく資料を読み解いてみると、意外な事実が判明してきました。ここでは、そのうちの三点を取り上げたいと思います。

【1】救助されたエドゥアルト・ヘルンスハイム(Eduard Hernsheim)船長は、すぐには
   ドイツに帰っていないということ。

何と彼は、宮古から基隆、香港を経てシンガポールに渡り、ここですぐに新しい船を調達して太平洋の島々に出かけ、貿易を始めるのです。しかも彼が活動した地域の多くは、後にドイツの植民地に組み込まれていきます。1884年には、ドイツ初の植民地としてニューギニアの北東部が保護領となり、さらに1899年にドイツは、カロリン諸島(現在のパラオ、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島)をスペインから購入(!)して植民地にしています。
もちろん、この地域で交易していたドイツの会社は他にもいくつかあるのですが、彼の交易活動もまた、この地域を植民地化する上での既成事実を作っていたと言えます。だからと言って、宮古の人による救助活動の価値が下がるわけではないものの、ヘルンスハイムを助けたことで、ドイツの植民地獲得の歴史にも影響が及んだとも言えるわけです。
『続・ロベルトソン号の秘密』 第一話なお、さらに皮肉にも、この「ドイツ領南洋諸島」は第一次世界大戦後、国際連盟の信託統治領として日本の管理下に置かれます。そしてパラオ、トラック、ヤップ、ポナペなどの島々は、伊良部島をはじめとする沖縄の漁業者にとってのカツオ漁の拠点になっていくのです。
ちなみに、最近出たヘルンスハイムに関するドイツ語の本の表紙にヘルンスハイムの写真が載っています。
※画像をクリックすると拡大します(ドイツ版アマゾン)。

【2】「博愛記念碑」では、ドイツ人たちは「34日間」宮古に滞在した、となっています
   が、これがどうやら怪しいということ。

ヘルンスハイム船長の日記の記述とどうしても合いません。彼の日記では、乗組員が救助されたのは1873年の7月12日、島を旅立ったのが8月17日ですので、合計すると37日間になってしまいます。ではなぜ石碑には「34日間」と書かれているのか、これは謎のままです。
滞在場所が途中で変わったりもしているので、その辺に理由があるのかもしれません。とにかく、石碑に彫られた「34日間」が独り歩きしているという印象を受けます。とはいえ、今さら石碑の文言を修正することもできないので、困ったものです。

【3】これまでは、一度は風化して忘れ去られていた石碑(後に博愛記念碑と呼ばれるよう
   になる)が、1929(昭和4)年に松岡さんという人によって「再発見」された。

と言われてきましたが、実はそうでもないらしい、ということもわかっています。郷土史家の仲宗根先生によれば、富盛寛卓『郷土誌』(1910年)や、比嘉重徳『宮古の研究』(1918年)、慶世村恒任『宮古史傳』(1927年)などにも、石碑についての記述がある、ということで、石碑のことを知っている島民は1929年の再発見の前にも確実に存在していたのです。
ではなぜ、松岡氏が再発見したということになったのか、この点はさらに調べる必要がありますが、どうやら彼は、石碑の存在を日本全国に広める役割を担った人物、ということになりそうです。19世紀の宮古では異国船の漂着は頻繁に起きていましたから、ドイツ船を救助したことなど、別に石碑をもらうほどの英雄的行為だとは、宮古の人には認識されていなかったのだと思います。それが、本土という「外部の視点」で見て初めて、「美談・善行」と捉えられるようになった、そこから今につながる「博愛」という語りが生まれていったのだと私が考えています。

『続・ロベルトソン号の秘密』 第一話ロベルトソン号をめぐる秘密や謎は他にもたくさんあります。例えば、ロベルトソン号の乗組員の救出に向かったのは、佐良浜の人々が中心だったことも判明しています。2002年に伊良部島に「独逸商船遭難救助佐良浜漁師顕彰碑」ができたことをご存じの方もいるかと思いますが、では宮国の人はどういうサポートをしたのか、また救出隊には宮国の人はいなかったのか、もしも「混成部隊」だったとすればどうやって協力したのか、など、興味は尽きません。
この他、1937(昭和12)年から修身の教科書に「博愛」の話が載ったという点についても疑問点があります。宮古郡教育部会が、1933年に文部省が公募した「知らせたい美しい話」にこの話を応募したところ、一等を取ったので(1934年)教材に採用されたというのですが、では他にどんな「美しい話」の応募があったのか、なぜ「博愛」が一等になれたのか。これらも今後の研究課題になりそうです。

今回は、細かい話を長々としてしまいすみません。次回は「博愛記念碑」を宮古島に運搬した軍艦「チクロープ号」の写真、または、ヘルンスハイム船長が出版した著書『ドイツのスクーナー「R.J.ロベルトソン」号の沈没と「太平山」島民による乗組員の保護』の初版本(ストラスブールで1873年に発行)の写真など、お見せできればと考えています。お楽しみに。

《第三金曜担当》 ツジトモキ
1978年 愛知県岡崎市生まれ。M大学農学部専任講師
ATALASネットワークにおける、独逸マイスターである(暫定)。



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