2017年02月17日
『続・ロベルトソン号の秘密』 第二十二話「トラウツ博士、宮古へ」 その二
今回も引き続き、1936(昭和11)年11月に宮古島で開催された「獨逸皇帝感謝記念碑建立六拾周年記念式典」に参列したF.M.トラウツ博士(京都ドイツ研究所の所長)の足取りを辿っていきます。前回は、トラウツが京都を経って(11月9日)那覇に到着(10日)し、那覇と首里を精力的に回る様子を追っていきましたが、今回の舞台はいよいよ宮古島です。
11月12日午後4時、トラウツ一行を乗せた大阪商船の「湖北丸」は那覇を出航、翌13日の朝、平良の沖合に投錨します。当時は港湾整備も行われておらず、水深の関係で大型の客船は港に入れなかったため、客船から平良の桟橋の間は「はしけ」で移動していましたが、トラウツらが着くと既に沖合では、日独の旗や紅白の飾りを付けた漁船が一行を出迎えていました。さらに桟橋に着くと、島じゅうから集まった何千人もの島民が一行を出迎えた、と報告書には記されており、実際にこの時の映像(宮古最古の映像とされるもので、この式典の記録映像として撮られたフィルム。この映像についての詳細はこちら)を見ても、桟橋の周辺に群衆がひしめき合って様子が見て取れます。
この先、トラウツは2日後の11月
日が暮れる頃には提灯行列が始まりますが、この時トラウツは町内各地を散策しに出かけます。夜7時半からは旅館「月見亭」でパーティー。70人もの人が参加したそうです。
翌14日には、トラウツの宮古島出張の主目的でもある博愛記念碑60周年記念祭と、宮国での新しい記念碑(「獨逸商船遭難之地」碑)の除幕式が開かれました。まず午前中は、1876年に建立された「博愛記念碑」の前での式典。この式典には、60年前のロベルトソン号の漂着に関わった濱川孫太郎(クリ舟でドイツ船に救助に向かったひとり)と崎原松(陸上で救助に尽力したひとり)の2人も招かれていました。雲ひとつない天気のもと、9時半から12時前まで式典は開かれ、関係者の祝辞が延々と読み上げられたようです(当日はかなり暑かったと記されています)。トラウツもドイツ大使館に代わってスピーチを(今度はドイツ語で)しました。式典の最後には、ロベルトソン号の救助に功績のあった人々とその子孫への表彰が行われ、関係者一人一人に銀の記念硬貨と賞状が贈られました。最後に、祝電を寄せた人々の名前が読み上げられて式典は終了しますが、引き続いて一行は平良第一小学校へ移動、ここで300人規模の昼食会が開かれます。しかしもう1時過ぎには、トラウツらは次なる式典に参列すべく、車で(ドイツ商船の漂着現場近くの)宮国に移動します。ここでは、60周年を記念して新たに制作された「獨逸商船遭難之地」碑(碑文は近衛文麿の揮毫とされる)の除幕式が行われ、この時も様々な関係者が祝辞を述べています。さらに除幕式に続いて、1873年のドイツ商船漂着時に亡くなったドイツ人に対する慰霊祭が、神式で執り行われました。
その後一行は再び車で平良に移動し、前日と同じく、町役場そばの観覧席に向かい、ここで各種の催し(おそらく踊りやスポーツ)を観覧します。これらの催しのクライマックスが、約2時間に及ぶ大綱引きで、綱の長さは100メートルもあり、太鼓と掛け声でものすごい音量だったとトラウツは記しています。さらにその晩は、平良町長の石原雅太郎主催の祝宴があり、約70人の出席者を前に、トラウツはまたスピーチを行っています。
宮古島滞在の最終日となる三日目も慌ただしく過ぎて行きました。まず午前中は、平良の運動場で開催されたスポーツ大会を見学。映像にも映っている、徒競走やモダンダンスなどは、この時のものと推測されます。踊りや歌の披露、10キロ走や短距離走などが行われており、最後に日独友好を祝して万歳の掛け声があがると、トラウツは宮古郡万歳の声で返答しています。またこの催しの最中には、1905年のいわゆる「久松五勇士」のうちの4名と、残る1名の息子も姿を現したそうです。
日の丸旅館で昼食を取り、出発の準備をすると、一行は3艘の「はしけ」に分乗して、桟橋から沖合の船(復路は大阪商船の「湖南丸」)へと渡って行きました。このはしけで船まで見送りに来た人もいて、涙ながらに別れを惜しんだそうです。
3日間の強行日程を終え、一行は宮古を出航する頃には疲労困憊でクタクタだったとトラウツは記しています。ここで挙げたように各種の行事に参加して(時には日本語で)スピーチをし、随所に招かれて歓待を受け、また「名士」とされる島の様々な人にも面会していますから、超過密スケジュールだったことは容易に察せられます。
【平良港見聞録/平良港湾事務所より】
以上が、トラウツ博士の宮古滞在の概要ですが、このテーマについては今後もさらに、彼の残した記録や映像、それに宮古側の資料なども突き合わせて、報告書や映像に出て来る場所が具体的にどこだったのか、研究する余地がありそうです。
次回は、二度目の那覇滞在を終えて帰京するまでの経緯を記したうえで、この60周年行事について検証してみたいと思います。
【編集補足】
米軍潜水艦の攻撃を受け沈没した湖北丸/八重山コラムちゃんぷる~
※湖北丸の船首写真があります。
◆注記のない写真はトラウツコレクションより抜粋
[訂正記録:20170316]
Posted by atalas at 12:00│Comments(0)
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