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2017年04月21日

『続・ロベルトソン号の秘密』 第二十四話 「博愛記念碑のその後」

『続・ロベルトソン号の秘密』 第二十四話 「博愛記念碑のその後」

まずご報告があります。今回の「続ロベ」第24話で、このシリーズの連載から丸2年を迎えました。長期にわたりご愛読いただき、感謝しています。ドイツや沖縄本島や内地の歴史も参照しながら、1870年代から1930年代までの70年ほどの期間を中心に、ロベルトソン号や博愛記念碑に関連する隠れた史実などを、24回にわたり長々と紹介してきましたが、いかがだったでしょうか。こんなニッチなテーマにお付き合いいただいた数少ない読者の皆様、たんでぃがーたんでぃー(ありがとうございます)。

さて、この「続ロベ」ですが、ここで一旦、連載を休止させていただきたいと思います。その理由ですが、研究者は新しい研究成果をまず論文で発表することになっていて、そこでは原則的に未発表の内容を掲載することになっているため、まずはここ数年間で得た最新の知見を論文の形で発表しないといけない、という事情があるからです(言い換えると、先にここに載せてしまうと、論文が書けなくなるのです)。ということで、しばらくの間は論文の執筆に専念させていただき、ご要望があればまた来年以降、戻って来たいと思います。ご理解のほど、お願い致します。
『続・ロベルトソン号の秘密』 第二十四話 「博愛記念碑のその後」
そんなわけで、休止前の最後の連載となる今回の「続ロベ」、テーマは「博愛記念碑のその後」です。京都のトラウツ博士をドイツ政府代表に迎えて、1936(昭和11)年11月14日に記念碑の建碑60周年式典が盛大に祝われた直後から、日独両国は大規模な戦争へと突き進んでいきます。記念式典直後の1936年11月25日、日独両国はドイツの首都ベルリンにおいて防共協定を締結、この協定は翌37年には日独伊防共協定に発展し、1940年9月の日独伊三国同盟へとつながっていきます。ドイツはまた1938年にオーストリアを併合、さらにチェコスロバキアのズデーテン地方の割譲も要求し、イギリスとフランスがミュンヒェン会談で譲歩したことでこの地方も併合、そして1939年8月に独ソ不可侵条約を締結した直後の9月にポーランドに侵攻し、第二次世界大戦へと突入します。日本も、1937(昭和12)年7月の盧溝橋(マルコ・ポーロ橋)事件を機に日中戦争に、そして1941(昭和16)年12月から太平洋戦争に突入していきます。世界大戦の詳細を述べる紙幅はありませんが、この大戦の戦死者は約2500万人、民間人の犠牲者が約2500万人、戦傷者は約3500万人といわれています(『日本大百科全書』より)。さらに1945年までの間に、ナチスドイツの人種政策(絶滅政策)により、ヨーロッパのユダヤ人(正確にはニュルンベルク法により「ユダヤ人」とされた人々)約600万人以上が殺害されました。

宮古島もまた、この世界大戦の影響を受け、戦争末期には日本軍の地上部隊3万人が駐留していたとのこと。また空襲も激しかったと聞いています(ちなみに「獨逸商船遭難之地」碑も機銃掃射を受けて何か所かが欠けています)。戦後の宮古は、1945(昭和20)年12月に琉球列島米国軍政府の支配下に入り、1947(昭和22)年3月には宮古民政府が成立、1950(昭和25)年8月には宮古群島政府が設立しますが、その後間もない1952年4月には、沖縄全体(1953年12月までは奄美諸島も)を統括する琉球政府(USCAR≒ユースカー:編注)の管轄下に入りました。

なお、博愛記念碑に(少しだけ?)関連するこの時代の動きとして、1947年に「博愛せんべい」で有名な与座製菓が設立されています。この、島外では決して買えない(はず、少なくとも私は島外で目にしたことはない)宮古土産の横綱「博愛せんべい」の成立背景などについても、今後十分に研究の余地があると思われます。
『続・ロベルトソン号の秘密』 第二十四話 「博愛記念碑のその後」『続・ロベルトソン号の秘密』 第二十四話 「博愛記念碑のその後」
かたやドイツはどうだったか、と言いますと、まずナチスドイツは1945年5月8日に連合国に無条件降伏します。東方の領土はソ連により大幅に縮小され、残った土地は米・英・仏・ソの4か国に分割、占領されました。またベルリンは、周囲はソ連占領地域ながら、市内はやはり4カ国に分割されています。東西冷戦の激化に伴い、米英仏の占領地域とソ連の占領地域とが分断されてしまい、前者の占領地域(ドイツの西部・南部と西ベルリン)はドイツ連邦共和国(西ドイツ)として、後者の占領地域(ドイツ東部)はドイツ民主共和国(東ドイツ)として、いずれも1949年にスタートを切ることになりました。その後、東ベルリンから西ベルリン(東ドイツの中にある離島のような存在)への人口流出を止めるために西ベルリンの周囲約160キロを囲む形で1961年8月に突如建設されたのが「ベルリンの壁」です。この壁は、1989年11月9日に事実上崩壊するまで、東西分断の象徴となりました(ちなみにこの壁の一部は、「うえのドイツ文化村」にも展示されています)。1990年に、東ドイツが西ドイツに編入される形で再統一が実現し、現在に至っています。

この間の宮古とドイツの交流としては、1972(昭和47)年の沖縄返還の年に行われた「博愛記念百年祭」でしょう。実は本当の100周年は、1873(明治6)年のロベルトソン号の漂着の100年後に当たる1973年なのですが、本土復帰の年がドイツ船漂着から100年目に当たる(やや厳しいですね)ということで、11月13日から3日間にわたり開催されました(1936年の60周年祭と同じ期間です)。これに先立つ1972年7月には、宮古の教育者の下地馨氏が西ドイツ政府の招待で渡独しています(博愛記念祭に向けて古文書の収集することが目的)。また11月の記念祭には、駐日西ドイツ大使のヴィルヘルム・グレーヴェ氏や日独協会会長の三井高陽氏が参加、博愛記念碑が再び注目されるきっかけとなりました。
『続・ロベルトソン号の秘密』 第二十四話 「博愛記念碑のその後」
この他、復帰前後の時期の特筆すべき出来事として、『南島』第三輯の「宮古特集号」(江崎悌三氏による、博愛記念碑設置に関する交渉の詳細な資料なども収録)の復刊があります。この本は、戦時下の台北で1943(昭和18)年に刊行されたため、ほとんど日の目を見ることがなく、「まぼろしの書」と言われていましたが、須藤利一、川平朝申、下地馨らの尽力により1969(昭和44)年に復刊されました。この復刊が、博愛記念碑への学術面・メディア面での関心を喚起し、博愛記念百年祭につながっていったとも言えるでしょう。

ドイツ再統一(1990年)以降の、ドイツと宮古の交流に関する一番のビックイベントは、何といってもゲルハルト・シュレーダー首相(当時)の宮古訪問でしょう。2000(平成12)年7月21日から23日まで、名護市の「万国津梁館」でG8首脳会合(いわゆる九州・沖縄サミット)が開かれましたが、この期間中の7月21日にシュレーダー首相は宮古を訪問、うえのドイツ文化村を訪れて記念式典に参加し、上野村の小中学生とも交流しています。この時、宮古空港から「うえのドイツ文化村」までの県道190号線(平良・新里線)をシュレーダー首相が通ったことを記念し、2000年11月にはこの通りが「シュレーダー通り」と名付けられました。
『続・ロベルトソン号の秘密』 第二十四話 「博愛記念碑のその後」
ちなみに、先進国の首脳はもちろん、外国の首相級クラスの政治家が宮古島を訪問するのは極めて異例のことで、実際に外国首脳の宮古訪問は、シュレーダー氏がこれまでで唯一の事例となっています(但し、ドイツの国家元首は大統領なので、残念ながら宮古への外国の国家元首の訪問はまだ実現していません)。なお、天皇陛下が宮古を初めて訪問されたのは2004(平成16)年のことです。

シュレーダー首相は、一連の日程を終えると足早に那覇に戻ったとのこと。短い宮古滞在だったようですが、それでもこの訪問を機に、宮古とドイツとの関係が改めて注目されたことは間違いありません。

この先、博愛記念碑がどのように扱われて、語り継がれてゆくのか、気になるところですが、私としては今後も、ロベルトソン号にまつわる様々な史実を検証し、誤った情報は正し、また新しい史実を積極的に紹介しながら、引き続き皆さんの関心に応えていきたいと思います。引き続きよろしくお願い致します。

◆ATALAS blog連載シリーズ
「続・ロベルトソンの秘密」

◆H26年度 みゃーく市民文化センター 第一回講座
「ロベルトソン号の秘密」
開催日:平成26年9月7日
主 催:ATALSネットワーク
平成26年度沖縄文化活性化・創造発信支援事業



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