2016年09月16日
『続・ロベルトソン号の秘密』 第十七話「総集編」

「んなまtoんきゃーん」が今週火曜(9/13)の連載で目出度く100回を迎えたとのこと、おめでとうございます。この「続ロベ」も、どこまで続けられるかわかりませんが、もうしばらく頑張りたいと思います。数は少ないけどコアな読者の皆様、ゆたしく、うにげーさびら(よろしくお願いします)。
気付けばもう16か月間にわたり、ロベルトソン号の宮古島漂着というひとつのニッチなテーマに関して、延々と航海を続けてきました。船長エドゥアルト・ヘルンスハイムの話だけでなく、当時の時代背景として日本やドイツの歴史、さらにドイツの植民地の話など、あちらこちらに寄り道をしながら、かなり細かいことまで扱って来たので、何だかマニアックでよくわかんない、途中から合流したくても付いて行けない、今さら過去の投稿を読み通すのは面倒、とお感じの方もいるかと思います。そこで今回は、エドゥアルトに関する一連の「秘密」を紹介し終えたことでもありますし、今までの16回の連載内容をざっくり理解できるよう、これまでに出てきた様々な用語を簡潔に説明していく「総集編」としたいと思います。
星3つ(★★★)は最重要キーワードですので、お急ぎの方もこれだけはぜひチェックしていただけたらと思います。星2つ(★★)は知っておいて損はない、ワキを固めるための情報(ここまで押さえておくと、理解の奥行きが増します)、星1つ(★)は寄り道程度のマメ知識だと思って下さい。
石碑編
★★★ ドイツ皇帝博愛記念碑(1876年3月建立)
1873(明治6、同治12)年のロベルトソン号漂着に際し、宮古島民が乗組員を救助・保護したことに感謝の意を表すという「名目」でドイツ皇帝ヴィルヘルム一世が1876(明治9、光緒2)年に贈った(送りつけた)石碑。中国で作られたものと考えられていて、フォン・ライヒェ艦長率いるチクロープ号が上海でこれを搭載し、その後横浜、那覇を経て宮古島に運ばれ、島民の助けを借りて平良の親越(または小屋毛)に建立され、3月22日の皇帝の誕生日に合わせて除幕式が行われた。石碑の表面にはドイツ語と中国語で、裏面には中国語で、ドイツ船遭難救助のあらましとドイツ皇帝の謝意が記されている(但し碑文の書き方はかなり「上から目線」+事実と異なる記載が多い)。碑文のドイツ語と、その日本語訳は以下の通り。
„Im Juli 1873 ist Das Deutsche Schiff R. J. Robertson geführt vom Capitain Hernsheim aus Hamburg, an den Felsen von der Küste von Typinsan gestrandet. Die Besatzung ward mit Hilfe der Uferbewohner gerettet, in Sicherheit gebracht und während 34 Tage gastlich aufgenommen, bis sich am 17. August 1873 die Heimreise bewirken liess. In dankbarer Anerkennung dieses rühmlichen Benehmens haben WIR WILHELM VON GOTTES GNADEN Deutscher Kaiser,König von Preussen die Aufstellung dieses Denkmals zu bleibender Erinnerung angeordnet.“× ハンブルク→マインツ(但し船はハンブルク籍)
ハンブルク出身の船長ヘルンスハイムに率いられたドイツ船R. J. ロベルトソン号は、1873年7月、太平山の海岸の岩礁に座礁した。乗組員は、海岸の居住者の援助により救出され、安全な場所に運ばれ、1873年8月17日に帰郷の旅が実現するまでの34日間、手厚いもてなしを受けた。この立派な行いを謝して認め、神の恩寵を授かりしドイツ皇帝にしてプロイセン王である朕ヴィルヘルムは、末代までの記憶にこの記念碑の設置を命じた。
▲ 海岸の居住者の援助→実際に救助に向かったのは多くが佐良浜の漁師
× 34日間→エドゥアルトが宮古島に滞在した期間は、正確には37日(新暦の1873年7月12日から8月17日まで)
★★★ 獨逸商船遭難之地碑(1936年11月建立)
1936(昭和11)年に開催された「博愛記念碑60周年祭」に合わせて、ロベルトソン号漂着現場近く(宮国)に建てられた。碑の表面の「獨逸商船遭難之地」は近衛文麿が揮毫したとされている。「うえのドイツ文化村」の開設(1996年)に伴い、石碑の位置はやや移動し、現在はドイツ文化村の園内に建っている。
★★ 佐良浜漁師顕彰碑(2005年建立)
佐良浜漁港のそばの丘に2005(平成15)年に新たに建てられた記念碑。ロベルトソン号の救出に貢献した佐良浜の漁師8名の名前が刻まれている。詳しくはこちら。



地名編<ドイツ>
★★★ ハンブルク(Hamburg)[MAP]
ドイツを代表する港町。現在は人口約180万人を擁し、首都のベルリン(Berlin)に次ぐドイツ第二の都市。ロベルトソン号はこの街の船籍に登録された。またエドゥアルトが「南洋」での貿易活動を終えた後、晩年を過ごした土地でもある。
★★ マインツ(Mainz)[MAP]
ドイツ中部、フランクフルトの西に位置するライン河畔の町。活版印刷術を発明したグーテンベルク(Johannes Gutenberg, 1398頃?-1468)の生まれた町として有名。この町でエドゥアルト・ヘルンスハイムは生まれた。
★ リューベック(Lübeck)[MAP]
ハンブルクやブレーメン(Bremen)と並ぶハンザ同盟都市として、中世以来栄えてきた北ドイツの港町。ロベルトソン号はこの街のヤーコプ・シュテッフェン(Jacob Steffen)という船大工のもとで製造された。
地名編<宮古島>
★★★ 平良(ひらら)
宮古島市の行政・経済の中心池、旧平良市。仲宗根豊見親が中山に服属した後、琉球王府の在番が置かれ、王府から派遣された在番役人が島の統治に当たっていた。エドゥアルトらも、救助された後に(一時的に野原に収容され、その後)平良に移っている(新暦7月31日から)。
★★★ 佐良浜(さらはま)
伊良部島の東側にある地域の名前(字では池間添と前里添を合わせた地域)。(宮古本島の北にある)池間島の住民と同様、古くから漁業を営んでいた。ロベルトソン号の漂着時、クリ船を出して乗組員の救助に向かったのは、多くは佐良浜の漁師であったと言われている。
★★ 池間島(いけまじま)
宮古島の北に位置する島。1797年には、この島の北側にある八重干瀬(やびじ)にイギリス船プロビデンス号が漂着している。佐良浜と同様、島民は漁業を生業としており、船を操るのが得意だったため、博愛記念碑の運搬に際して、池間からも島民が作業に駆り出されている。

宮古島市南西部、旧上野村内の地名。ロベルトソン号はこの沖合に漂着した。
★ ンナト浜
ロベルトソン号が座礁・破船したと言われている宮国の海岸。此の浜の沖合いにあるウプビシ(大干瀬)に座礁した。
地名編<その他>
★★ 福州(Fuzhou)[MAP]
中国南部の港湾都市で、福建省の省都、現在の人口は約270万人。エドゥアルトは1873年7月、ロベルトソン号に茶葉を積み込んでこの街を出航し、2度目のオーストラリア行きを試みたが、直後に台風に遭い、宮古島に漂着した。なお福州は、琉球王府の朝貢貿易の玄関口でもあり、かつては王府の出先機関(大使館のようなもの)である「福州館」が置かれていた。現在、那覇市と姉妹都市提携を結んでいる。
★★ アデレード(Adelaide)[MAP]
オーストラリア南部の都市。現在は南オーストラリア州の州都で、人口は約120万人。福州で茶葉を積んで出航したエドゥアルトはこの町を目指していた(+帰路は石炭を積んで中国に戻る予定だった)が、台風に遭って宮古に漂着することとなる。
★★ 基隆(きーるん、Keelung)[MAP]
台北の北東約20キロに位置する港町で、現在の人口は約37万人。日本による台湾統治時代(1895-1945)は、内台航路の玄関口として栄えた。エドゥアルトは、宮古の役人から贈られた船でこの町まで航海し、ここからイギリス船に乗り換えて香港に向かっている。

主要人物編
★★★ エドゥアルト・ヘルンスハイム(Eduard Hernsheim, 1847-1917)
宮古に漂着したドイツ船ロベルトソン号の船長。父ルートヴィヒ(Ludwig)、母ゾフィー(Sophie)の子で、姉ロゼッテ(Rosette)とユリア(Julia)、兄フランツ(Franz Hersnhe)に続く4人目として、1847年5月22日にマインツで生まれた。ダルムシュタット(Darmstadt)の工業専門学校で化学を学んでいたが、1863年に父ルートヴィヒが死去したため、経済的な事情で勉学を諦める。一時は農場で働いていたが、いとこの勧めにより船乗りに転身、1868年にキール(Kiel)で航海士と船長の試験に合格し、ハンブルクの商社で航海士となる。1869年に父の遺産を継ぎ、翌年に自身初の船となるクリアー号(Courier)を購入し南米に渡る。1871年、おじのルーベン・ヨーナス・ロベルトソンの援助で2隻目の船を購入、これをロベルトソン号と名付け、翌1872年にアジアでの貿易に乗り出す。中国で購入した茶葉をオーストラリアで売却し、オーストラリアから中国に石炭を運ぶ交易の途上で、ヨーロッパの影響が及んでいない太平洋の島々を目にし、ここをビジネスチャンスと捉えた。1873年7月、福州で茶葉を積んで2度目のオーストラリア行きに乗り出した矢先に台風に遭い、宮古島に漂着するが、島民の救助により保護され、37日間の滞在の後、島の役人から船を与えられて島を出航、基隆を経て香港に向かう。エドゥアルト自身は、その後もドイツには帰らず、次の船ケーラン号(Coeran)ですぐさま太平洋での交易に乗り出す(漂着の翌年にはパラオに上陸している)が、宮古での遭難救助の経緯をドイツの新聞に発表し、さらに著書も出版したため、宮古島民によるドイツ船救助の事実がドイツ国内で知られるようになった。その結果、ドイツ政府は宮古島に謝恩の石碑を建てることを決定し、1876年にいわゆる「博愛記念碑」が建立されることになった。ヘルンスハイム自身は、その後は宮古とは関わりを持たず、兄のフランツとともにもっぱら太平洋地域での交易に携わった。1892年3月まで、主にミクロネシア、メラネシアで活動した後、ドイツ本国に帰国。第一次世界大戦さなかの1917年にハンブルクで死去。
★★ フランツ・ヘルンスハイム(Franz Hernsheim, 1845-1909)
エドゥアルトの兄。エドゥアルトとともに、太平洋地域での交易活動に従事した。1878年にはマーシャル諸島のヤルート(Jaluit)に設けられたドイツ領事のポストに就き、健康上の理由でドイツに帰国する1881年までこの職にあった(その後は弟のエドゥアルトがドイツ領事に就任した)。マーシャル諸島の言語や習俗に関する研究書などの著作も出版している。
★ ルーベン・ヨーナス・ロベルトソン(Ruben Jonas Robertson)
エドゥアルト兄弟の母方のおじ。エドゥアルトの母ゾフィー(オランダの商家の娘で、旧姓はメンデスMendes)の姉ヘンリエッテ(Henriette)の夫がルーベン・ヨーナス・ロベルトソンに当たる。ハンブルクで鉱石の輸入に携わっており、業績は好調で、「進取の気性に富んだ若者を支援するための基金」を設立して若手企業家を支援していた。甥にあたるエドゥアルトにも資金援助を行い、それによってエドゥアルトは、破船した1隻目の船クリアー号に代わる2隻目の船を購入できた。エドゥアルトは、資金提供者であるおじの名を借りてこの船を「R. J. ロベルトソン号(R. J. Robertson)」と命名。これが宮古に漂着するドイツ商船ロベルトソン号である。
★★★ ヌイチャン(=内間仁屋、本名は本永幸敏)
エドゥアルトの日記に”Nui-Chan”の名でたびたび登場する島の下級役人。ロベルトソン号の乗組員の通訳と接待に当たった。1869年のイギリス船漂着、1870年にフランス船漂着の際にも通訳として活躍したとされ、その時に覚えた英語、フランス語の知識を活かして、ドイツ人乗組員と在番との間の連絡係・折衝役を果たした。その功績により、博愛記念碑建立の際、ドイツ皇帝から記念品として銀時計を贈られている(下級役人には異例の措置?)。
★★ 花城親雲上
ロベルトソン号漂着当時の島の最高責任者。1872(明治5、同治11)年に首里王府から派遣され、1874(明治7、同治13)年2月14日に宮古で病没した。彼の短い宮古在勤中に、ロベルトソン号の漂着のほか、台湾遭害事件(1871年)の生存者の帰還や琉球藩の設置(いずれも1872年)など、琉球の社会を揺るがす事件が次々と起こっており、それらの対応に追われる日々を過ごしていたのではないかと推測される。
【市指定:典籍】恩河里之子親雲上の墓碑
★★ フォン・ライヒェ(Von Reiche)
チクロープ号の艦長(+当時の身分は海軍大尉)として、博愛記念碑の建立と記念品の贈呈という任務を帯びて宮古島に派遣されたドイツの軍人。まず上海で記念碑を載せ、1876年2月に横浜に入港すると、日本の外務省が用意した通訳の山村一蔵を乗せ、同年3月12日に那覇に到着(琉球藩王への謁見を求めたものの、病気を理由に面会できず)、ここで琉球語と日本語の通訳として多嘉良親雲上を乗船させ、3月16日に宮古に到着。皇帝ヴィルヘルム一世の誕生日に除幕式を行えるよう、記念碑の設置場所の選定と運搬などの作業に急ピッチで取り組んだ。3月20日には作業を終え、22日に予定通り除幕式を行った。さらにその後は宮古の周辺海域の地理学的調査も行っている(ドイツの領土的野心を示すものではないか?)。
★★ 山村一蔵(1850頃?-1879)
岸和田藩(今の大阪府)に生まれ、幕末に蘭学を、また明治維新後はお雇いドイツ人教師のもとでドイツ語を学ぶ。博愛記念碑の建立当時は外務省(それ以前は文部省)に勤務しており、ドイツ語に堪能だったことから通訳としてチクロープ号に同乗、那覇を経て宮古島に渡った。その際、通訳としての功績がドイツ政府に認められ、金時計を贈られた。その後、東京大学医学部の教師を経て、ドイツ語の私塾「独逸学校」を設立するが、1879(明治12)年に急死した。
★ 多嘉良親雲上
琉球語と日本語の通訳として、那覇からチクロープ号に乗船し、宮古に渡った琉球王府の役人。名前や生没年をはじめ、どういった経緯で通訳に選ばれたのか、宮古方言は解したのかなど、詳しいことはわかっていない。おそらく、明治政府から通訳手配の要請を受けた琉球王府が、彼に宮古行きを命じたものと推測される。彼については、沖縄側の文献をさらに調査する必要がありそう。
その他
★★★ 船長日記

★★ 宮古島民台湾遭害事件
ロベルトソン号漂着の2年前に当たる1871(明治4、同治10)年、宮古の年貢運搬船(役人ら69人乗船)が積み荷をおろし那覇からの帰路、台風に遭い台湾南部に漂着し、54人が原住民に殺害された事件(その他に3人が溺死)。12人が現地人に救助され、台湾から福州、那覇を経由して翌72年に宮古に帰還している。ロベルトソン号の漂着に際し、宮古の人々が、この事件の影響からドイツ人を「人食い人種ではないかと恐れた」とする説もあるが、この台湾遭害事件がロベルトソン号漂着時の対応にどの程度影響したかは不明である。
なおこの事件を口実に、西郷従道(隆盛の弟)は1874年に(明治政府の中止命令を振り切って)独断で軍艦4隻を率いて台湾に上陸、現地の住民を討伐した。同年10月に日清両国間で北京議定書が締結され、日本は清国に対し、賠償金の支払いと、琉球の民を「日本国属民」と表記することを認めさせた。
★★ 琉球藩の設置
ロベルトソン号漂着の前年に当たる1872(明治5、同治11)年、明治政府は琉球王国を琉球藩に、国王尚泰を藩王に格下げし、琉球を外務省の管轄下に置いた。その後さらに1874年に琉球を内務省の管轄下に置き、琉球藩を国際法上の日本の領土とした。なおこの措置により、「博愛記念碑」の設置に際して、ドイツ政府は宮古島を日本の領土と見做し、東京のドイツ公使館を通して日本政府に石碑建立の許可を申請している(但し実際には、「石碑を持っていきますね」というドイツ側の一方的な通告に近かった)。明治政府はその後、1879(明治12、光緒5)年に松田道之を琉球処分官として首里に派遣し、琉球藩を廃藩、沖縄県を設置した(琉球処分と呼ばれる)。
これで、ロベルトソン号漂着&「博愛記念碑」建立の経緯や、エドゥアルト・ヘルンスハイム船長の経歴、関係する主な人物や物語の舞台となった場所やその歴史について、ある程度おわかりいただけたと思います。
ここまでが、「続ロベルトソン号の秘密」の第一幕でした。来月からの第二幕では、「博愛記念碑」の「その後」をフォーカスします。ドイツ皇帝の「石碑」が、半世紀の時を経て再び脚光を浴び、「博愛記念碑」と名付けられ、修身の教科書に採用され、1936年(今からちょうど80年前)の「博愛記念碑60周年記念祭」へと盛り上がりを見せていく経緯を紹介していきます。お楽しみに。
Posted by atalas at 12:00│Comments(0)
│続・ロベルトソン号の秘密