2016年06月17日
『続・ロベルトソン号の秘密』 第十四話「博愛記念碑建立」

1876年(明治9年・光緒元年)3月5日、ドイツの軍艦チクロープ号は、日独語の通訳である山村一蔵(外務省九等出仕)を伴って横浜を出航します。出航直後の3月7日には、激しい雨が断続的に続き、強い南東風や南西風に見舞われたりもしましたが(チクロープ号 艦長フォン・ライヒェはこれを、季節外れの台風の影響だと推測しています)、船は無事に3月12日午後2時頃に那覇港に入港します。
この後ドイツ人一行は3月15日まで那覇に滞在し、この間に首里の王府への表敬訪問なども行った後、多嘉良親雲上を琉球語と日本語の通訳として乗船させて出航します。
その詳細については、フォン・ライヒェ艦長がベルリンの海軍省に出した1876年4月の報告書に詳しいのですが、これを解説し始めると宮古に着けなくなるので今回は割愛します。
なおこの報告書は、『南島』第三輯にもドイツ語の原文が掲載されており、さらに江崎悌三氏(1936年の60周年式典にも参加した九州帝国大学の教授)による訳も付いているものの、現代の私たちにはこの訳の訳が必要なほど漢語が多く読みにくいため、近々現代語訳を出したいと思っているところです。

【上】 「恩河里之子親雲上の墓碑」
石碑の背後にあった樹木が颱風で倒壊したことにより、斜面が崩れはじめて土砂が流出し、石碑が傾きだしている。今後の保存状態が気になります。
【下左】 石碑の設置状況(2016/06/17現在)。元々それほど大きな碑ではないため、草木と土砂で埋もれかかっています。
【下中】 墓碑のある西仲宗根の海沿いの崖に並ぶ墓群。仲宗根豊見親や知利真良の墓などがある。
【下右】 石碑の脇にある綾道アプリ対応の案内板。アプリを起動してQRコードを読み込むと、解説や写真、動画(一部史跡)を見ることが出来る。



さて、所変わって舞台は3月16日(旧暦2月21日)の宮古。沖合に突如、異国船が姿を現します。その様子を、狩俣村耕筰筆者の池間仁屋は次のように記しています。
二月廿一日火輪船一艇五ツ時分子牛之間ヨリ走リ出テ四ツ時分三番口ヨリ口入仕申候此段御問合申上候
五ツ時分は朝8時頃、子丑は北北東の方角、四ツ時分は10時頃なので、チクロープ号は朝8時頃に北北東から姿を現し、10時頃に入港したものと考えられます。なお、三番口というのがどこを指すのかは不明ながら、ドイツ側の報告によれば、漲水港に碇を下したことになっています。ロベルトソン号漂着時もそうでしたが、異国船が来るということは、島の役人はじめ民衆にとっても、面倒な仕事が降って湧いたようなもの。そして今回もその例に漏れず、チクロープ号の来航は島に大変な迷惑をかけることになるのでした。
宮古に着いた一行は、すぐさま石碑の設置場所を巡り、現地の役人たちと協議に入ります。在番側は設置場所として、平良の町の中心部と島の南北を結ぶ道とが交差する地点がよいのではないか、と助言を行い、フォン・ライヒェもこれを受け入れます。報告書によればここは、海岸から数百歩離れた海抜20メートルほどの高台にあり、周囲に人家や木々もなく、背後は茂みになっていて、海からもよく見渡すことができたのだそうです。海岸線が沖に遠ざかり、周囲を住宅地に囲まれている現在の周囲の状況とは全く違いますね。
このようにドイツ側は、在番の提案をすんなり受け入れ、翌17日からすぐに工事に取り掛かったのですが、それには深いワケがありました。何としても、ドイツ皇帝ヴィルヘルムⅠ世の誕生日である3月22日に盛大な序幕式を催して石碑を贈呈したかったのです。その期日まではあと5日。しかし大理石と花崗岩でできた石碑は、高さ3.3m、幅87am、重さは約1800kgもあり、チクロープ号に乗って来たドイツ人水兵だけではとても運搬できません。
そのため、本来感謝の受ける側のはずの島民たちが賦役に駆り出され、石碑と礎石の陸揚げ・設置場所への運搬、さらに設置場所周辺の地ならしなどの作業を行わなくてはなりませんでした。石灰岩の岩場をならして石碑の設置場所を整備する作業も大変だったようですが、何よりも一番の困難は石碑と礎石を陸揚げする作業でした。平良から3艘、池間からも2艘の伝馬船が送り込まれ、石碑と礎石の積み替えを行ったものの、その重さのために船が浅瀬に乗り上げて立ち往生しまう始末。最後は、トロッコのようなものを急造し、石碑を人力で船からトロッコに積み替えてこれを陸まで運んだのですが、積み替えの際には数百人の島民が大声で掛け声をあげて石を持ち上げたとのこと。苦労の様子がしのばれます。
このような骨の折れる作業の末、3月20日には、礎石を無事に埋めることに成功、さらにフォン・ライヒェは、石碑建立の趣意や経緯を記した書類と、7種のドイツの貨幣を銅管に収めて、これを石碑の設置予定場所に埋めました。その場には、琉球側の役人として板良敷親雲上(島の最高責任者)ほか5名、島側の役人として平良親雲上はじめ9名、さらにあのヌイチャンと通訳の山村、多嘉良両名が同席したとされています。
そして3月22日にはいよいよ石碑を建立、10時半からは引き渡し式典を挙行しました。既に前日の時点で、島の役人から全島民に対し、式典に参加するよう通達がなされており、実際に当日の記念碑周辺は人だかりでごった返したようです。また、花火が打ち上げられても驚かないようにと、事前に注意喚起もなされていました。晴天の空の下、ドイツ海軍の士官と兵隊が記念碑まで行進し、その後フォン・ライヒェの演説、太平山の知事(板良敷親雲上か?)による石碑の中国語の碑文朗読などもあり、最後にはロベルトソン号救助に功績のあった島の役人たちに記念品が贈られました。記念品を授与された役人と品物の詳細は次の通りです。
【独逸皇帝より贈られた記念品の数々 『南島』第三輯より】

上里(親雲上) : 望遠鏡
川平(親雲上) : 金時計
平良(親雲上) : 銀時計
砂川(親雲上) : 銀時計
松原(首里大屋子) : 銀時計
内間(仁屋) : 銀時計
なおこの他に、琉球藩王(つまり尚泰王)と琉球摂政にもそれぞれ望遠鏡と金時計が、また通訳を務めた山村一蔵にも後になって金時計が贈られています。
また記念品を受け取った人物のなかに、川平親雲上という名前がありますが、彼は金井喜久子(1911-1986)、宮古島生まれ。女性で初めて東京音楽学校〔現在の東京藝術大学〕に入学し作曲家となる)の祖父に当たります。
それから、ヘルンスハイム船長の日記に「ヌイチャン」の名前で登場する内間仁屋が銀時計をもらっていますが、下級役人であった彼が記念品をもらえたのは例外的だと言えます。それだけ、ロベルトソン号漂着時にドイツ人一行の面倒を見たからでしょう。
このように彼がある種「報われた」のはよかったものの、反対に可哀想なのは1873年のドイツ船漂着時に島の最高責任者だった花城親雲上です。1872年の琉球藩設置や宮古島民台湾遭難事件、翌73年のロベルトソン号漂着(さらにこの年には首里の王府による先島視察もあった)など、激動の時代に対応に追われた花城親雲上は、既にこの時他界しており、時計や望遠鏡は受け取れませんでした。
しかし最も割が合わなかったのは、記念品をもらえないどころか、記念碑の陸揚げや運搬の作業にも駆り出された一般の民衆でしょう。ドイツ側は、島民へのプレゼント、と言いながら、石碑を運搬できる十分な人員も装備もないまま(しかも通訳も日本側頼みで)宮古に上陸し、ドイツ皇帝の誕生日に間に合わせるために島民を動員して石碑を建立しています。さらに言えば、島民たちはドイツ人に直接雇われたのではなく、船や人員を提供するよう、役人に指示されたのでしょう。
それなのに役人だけが記念品をもらい、大多数の島民は骨折り損のような形になっていて、当時はそれが当然だったのかもしれませんが、現代の視点からは腑に落ちないところです(確かに島の役人たちも、ドイツ人のために様々な対応に追われたとは思いますが)。
とまれかくまれ、無事に3月22日に石碑を建立し、引き渡しの式典も盛大に行ったフォン・ライヒェ艦長。すぐに宮古を出航したかと思いきや、翌日も宮古に残って、湾の水深の調査などを行っています。ここに、チクロープ号のもうひとつの狙いが見え隠れしています。水深の調査は、島に上陸を行う際の重要なデータになりますから、軍事的にも重要な価値を持ちます。
当時のドイツ海軍が、台湾を有力な植民地の候補と見做していたことも踏まえると、先島諸島への軍事的・領土的な関心があったとしても不思議ではありません。こうした事実や、前回・今回で見てきたようなドイツ側の一方的な態度も踏まえると、こんにち「博愛記念碑」と呼ばれるこの石碑が、島民の博愛的行為に感謝して贈られたものというよりも、むしろドイツが勝手に送りつけて来たもの、ともするとありがた迷惑なものでもあり、しかもそれは、東アジアにおけるドイツの覇権の象徴(「こんな所にもドイツは足跡を付けだぞ」というしるし)でもあると位置付けられるのではないでしょうか。
ここまでが、ロベルトソン号をめぐる長い話の前半部分、つまり「博愛記念碑」が宮古に建てられるまでのお話でした。その後の宮古は、近代の日本史(及び世界史)にますます組み込まれて、琉球処分(と旧慣温存)、サンシー事件、人頭税廃止運動など、激動の時代を迎えます。そんな時代の中で、この石碑は、完全に忘却されたわけではないものの、人々の意識からは遠のき、ましてやこの石碑に「博愛記念碑」としての価値を認めることもないまま時代は過ぎ去っていきました。しかし1930年代になり、この石碑が島外の人間によって「再発見」されたことで、石碑は「博愛記念碑」として新たな意味を付与され、一人歩きを始めて、政治的に利用されることにもなります。
そこで次回からは、この「石碑のリバイバル」に着目し、特に1936年11月の「博愛記念碑60周年式典」の様子に迫っていきたいと思います。
【文化財案内】
恩河里之子親雲上の墓碑(市指定典籍)
※宮古島綾道(あやんつ)アプリ:宮古島市教育委員会公認・史跡探訪モデルコースを搭載したアプリに対応したHP
【関連石碑】
第14回 「ドイツ皇帝博愛記念碑」
Posted by atalas at 12:00│Comments(0)
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