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2015年04月28日

第28回 「えんどうの花作詞家 金城栄治生家跡地」

4月期の上野編を終えて、5月期からは平良編へと移りますが、ひと足早く平良入りさせていただきました。
今回は先週紹介した、金城栄治の後編。「えんどうの花作詞家 金城栄治生家跡地」の碑です。
場所は平良市街地、三通りのひとつに数えられる市場通り(東仲宗根にあった旧・北市場と南市場~現在の宮古島市公設市場を結ぶ通り)の中ほど、西里郵便局の向かいの壁の柱に、ひっそりと佇んでいます。
第28回 「えんどうの花作詞家 金城栄治生家跡地」
掲載にあたって自分なりに金城栄治の足跡を探り、捉えることのできた彼のプロフィールと気になった疑問点を簡単にレポートしておきます。もし、不備などお気づきの点がありましたら是非、ご教示ください。

1903(明治36)年10月29日に、宮古島市(旧平良市)西里に生まれ育ちました(本籍は那覇市垣花町。場所は明治橋の南詰で、ほぼ全域が那覇軍港 ※1)。
1916(大正5)年4月、沖縄県立第一中学校(現・沖縄県立首里高等学校)に入学。幼少期についての記述はありませんでしたが、県立一中に入学していることなどを考えると、幼年期はともかく少なくとも少年期は那覇で育っていると思われます(英治13歳)。
1921(大正10)年3月に同校を卒業し、同年4月には初任地となる宮古島の新里尋常高等小学校(上野村教育発祥の地)に教師として赴きます(18歳)。

その後、年号がはっきりとしませんが2年はど宮古教員養成所(二年制)という機関(?)で、英・国・数の担当(国語科を担当したともある)して、“教えていた”と記述されている資料が見受けられます。
教員養成所というくらいですから、先生の学校のようなところと考えられ、前年に高校(旧制中学)を卒業したばりで、初任地の宮古で一年ほど教鞭をとった青年が、先生となろうとしてる人たちを教えることが出来たのだろうかという疑問があります(逆に教わっていたのではないかという疑念も湧く)。
ただ、少しだけ妄想を暴走させてみると、明治末頃に宮古島の各地に尋常小学校の整備が整い、1928(昭和3)年には沖縄県立第二中学校(現・県立那覇高校)の宮古分校として、現在の宮古高校が開学するというタイミングなので、宮古島での教育熱が特に高まっていた時期だったのではないかとも思われます。

2年後(養成所へ2年という年数と合致)の1923(大正12)年に(年号は逆算して算出)、本島北部の大宜味村塩屋小学校へと転任します。そしてこの地で「えんどうの花」の作詞(6月に書きあげた?)を手がけたとということなのですが、作曲を担当した宮良長包は1921(大正10)年に沖縄県師範学校教諭心得に就いており、年齢も出身も異なるふたりの接点はいったいどこにあったのでしょうか。
この時、栄治20歳。長包は40歳。長包の資料によると作曲をしたのは41歳の時という記述もあることから、英治の詩が長包に届くまで時間があり、完成したのはもう少し後だったりするのでしょうか(詩先曲先?)。そもそも実際に「えんどうの花」はどのようにしていつ完成したのでしょうか。

また、作詞をおこなったといわれている塩屋は山深いやんばるの漁村で、えんどうの畑が広がっているようなイメージは薄く、一説には新里時代に見た宮古の風景から創作されたとも云われていますが、歌詞の中に“冷たい風の吹く山”というニュアンスが織り込まれているなど、宮古らしさがあるともいいがたく、この歌詞のモデルとなった場所の特定するのはちょっと難しい気がします。この謎の答えは金城栄治だけが知っているとしておきましょう。

翌、1925(大正14)年に羽地村の稲嶺小学校(現。名護市の真喜屋小学校)へと転任(数年後、稲嶺小から垣花小へ移動したという話もありますが、同名の小学校は那覇市であり、彼の本籍地でもあること。塩屋小以降、やんばるの小学校ばかりを転任していることもあり、事象の混濁ではないかと邪推)。
1930(昭和5)年に、今度は今帰仁村の天底小学校へと転任するも、翌1931(昭和6)年7月25日には依願退職をしています。そしてひと月後の8月29日に金城栄治は天底にて病没。享年、わずか29歳でした。彼の足取りが不鮮明な理由は、この早逝にもあると思われますが、それにしてもあまりにも短い一生といえます(合掌)。

【参考資料】
ぺん遊ぺん楽「えんどうの花」石垣義夫(宮古毎日新聞2005年01/12掲載)

真喜屋小学校創立百周年記念誌(津波デジタルライブラリー)
えんどうの花は萎まず 宮里定三

えんどうの花 金城栄治/宮良長包 大正13年6月(1924年)

沖縄に花~在りし日の「えんどう畑の風景」への憶い~(結いの周りで)
※1これまで那覇市垣花の出身とされていましたが、甥の金城昭夫氏によって宮古島市生まれであることが明らかにされているそうです。


連載企画 「んなま to んきゃーん」
なにかを記念したり、祈念したり、顕彰したり、感謝したりしている記念碑(石碑)。宮古島の各地にはそうした碑が無数に建立されています。
それはかつて、その地でなにかがあったことを記憶し、未来へ語り継ぐために、先人の叡智とともに記録されたモノリス。
そんな物言わぬ碑を通して今と昔を結び、島の歴史を紐解くきっかけになればとの思いから生まれた、島の碑-いしぶみ-を巡る連載企画です。
※毎週火曜更新予定  [モリヤダイスケ]



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