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2017年02月21日

第123回 「道路開鑿紀念碑」

第123回 「道路開鑿紀念碑」

今回ご紹介する石碑は単純に道路の開通を記念した石碑です。以前、伊良部島の南区(伊良部地区)五字を縦貫する「五ヶ里道」の開鑿紀念碑を紹介しましたが、時代的には宮古の文明開化とか産業革命とでも云えそうな頃のお話です。
第123回 「道路開鑿紀念碑」
こちらの石碑は友利の集落センターの敷地内に、道路の方を向いて建立されています(なので、画像では下の方が壁で隠れて閉まっています)。
石碑によると、
大正四年十一月廿二日起工
仝 五年七月五日竣工
仝  年八月九日建設
と側面に刻まれています。
「仝」としてあるのに、二行目は元号のみ、三行目は元号+年数を省略しており、ちょっと微妙な表記になっていますが、五ヶ里道もまた1915(大正4)年の11月に石碑が建立されていますので、ほぼ同時期と云えます。
調べてみると、五ヶ里道は国仲寛徒の発案によって伊良部島内の道路整備(大正天皇の御大典≒即位でもあった)ですが、この着想は宮古島内で平良、城辺下地の三村組合(1913年)が作られ、郡道改修整備工事が事業化されたことに触発されていたりします。
島の玄関である漲水港、行政の中心となる蔵元と、各地を結ぶ主要道路といえど、その昔はヤマグ(盗賊)が跳梁し、マズムヌ(魔物)が跋扈すると云われるほど往来には危険を伴うものだったそうですが、時代とともに馬車や自動車など乗り物が近代化し、物流には道の重要性が増してきたこともあったようです。
こうして三村組合によって改修された道は、西里から福里の城辺線(現在の県道78号)、西里~新里の上野線(現在の県道190号)、下里~与那覇の下地線(現在の県道243号と国道390号)、西里から狩俣の狩俣線(現在の83号と県道230号)、野原越~砂川の砂川(うるか)線(現在の201号)、新里~宮国(現在の国道390号)の総延長およそ52キロ余り(この頃、漲水港からの市街への坂道も改修され、通称“大正道”と呼ばれていたらしい)。
こうして島内の基幹道路が整備されたことから、島の産業も飛躍的に伸びてゆきます。この時期以降、次第に乗合馬車の運行が始まります(後に乗り合い自動車≒バスへと発展する)。友利集落では隣り合う砂川の交差点(現・国道390号)付近から、平良までの乗合馬車の運行が始まっています(片道約一時間で、一日一往復)。

この石碑の裏面(集落センター側)には、発起人6名と寄付者24名の個人名と、道路監督・友利春光、、石工・久保田辰二、園田末吉(こちらは土台部分)の名が記されています。また、外字友利青年会員労力寄付とも刻まれており、道路の改修工事には字の青年会が全面的に協力したことがよく判ります。
第123回 「道路開鑿紀念碑」第123回 「道路開鑿紀念碑」
この友利の集落センターは、元の番所跡に建てられており、現在の建物は1980(昭和55)年に作れたことが、敷地内にそびえる「友利集落センター建築記念碑」から知ることが出来ます。また、正面入口には重厚な門があり、よく見てみるとこれもまた記念物で、「友利土地改良記念之門」というシロモノでした。これは「県営友利地区畑地帯総合土地改良事業」という長い名前の事業が、1978(昭和53)年から1984(昭和59)年にかけて行われ、その完成を祝して1989(平成元)年に門が建立されたようです。色々と祝っちゃったり記念しちゃう、らしさが良く出ている集落のような気がしました。

余談ですが、今回紹介した「道路開鑿紀念碑」の隣には、道路マニアの好物のひとつ水準点があります。すぐそばの国道沿いでなく、この道を記念する碑の隣にあるあたり、ちょっと素敵です。
友利と云えば「なりやまあやぐ」の発祥の地として知られていますが、宮古を代表するこの唄を世に広めるきっかけを作った友利實功の生誕地は、この先、インギャーの海へと続く道すがらにあります。
また、友利のあま井へは、集落センター前の脇道を道なりに真っ直ぐ進み、切通しを抜けたその先にあります。
今は県道沿いの何の変哲もない集落の一角に過ぎず、ともすれば通過してしまいそうな友利の集落ですが、旧番所を中心に見どころの多い地域であることに、改めて気付かされました。




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