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2019年04月16日

第229回 「新豊の井戸」

第229回 「新豊の井戸」

また、性懲りもなく井戸にまつわる石碑シリーズです。一応、形としては第225回「紀念・七原井」の続き、ではありませんが、枝編になります。流れとしては、第150回スペシャル企画「霊石」の七原の霊石にもつながっていますが、タイトルは仮称になります、というのも今回紹介する石碑のタイトルが読めないからです。まあ、ともあれまずがーと石碑を見てやってください。
第229回 「新豊の井戸」
上部が完全に引っ剥がれてしまってないのです。
辛うじて読めるのは、下の数文字だけ。それも左側はたぶん、「~十九戸」かな?、上の方の「十」も怪しいので、確実なのは「九戸」まで。これは井戸を開鑿した時の集落の戸数(出資した?)とみられます。次に右側。こちらの一番下の文字が「成」なのは、すぐに判明しました。その上の文字が難解でしたが、ハタとこはふた文字あると気づきました。「成」の上には「完」と「年」なのではないかと。つまり、「~年」で改行して、「完成」と刻まれているのではないでしようか。いかがでしょうか?、皆さんの見解は?。
第229回 「新豊の井戸」第229回 「新豊の井戸」
ともあれ、「~年 完成」「~九戸」としても、肝心の部分が剥がれ落ちていて、まったく読めないのには変わりはなく、非常に口惜しくあります。
実はこの石碑は、非常に珍しい三角柱なのです。デザイン上この形をしていたものは、砂川(うるか)のナナサンマルの石碑(第41回「730記念之塔 砂川学区交通安全協会支部」)くらいしか見たことがないと記憶しています。尚、余談になりますがこの宮古のナナサンマルの石碑には大きな謎があり、「ナナサンマルを追え!」と題して金曜特集にしたこともあります。
第229回 「新豊の井戸」第229回 「新豊の井戸」
他の二面のうち、ひとつはまったくの空白ですが、もう一面には「責任者 松原常保 宮■■祥」と、恐らく当時の新豊(にいとよ)集落のトップとみられる人物の名前が刻まれています。
しかし、この新豊の集落。前述の七原集落が海軍飛行場建設により集落まるごと土地を接収され、現在の鏡原中の南側へと移転して新たな七原集落を建てることになります。一部の人々は親類縁者を頼るなどして近隣各地に移住し、七原の人々はあえなく離散することになります。そんな一部の人たちが新天地として、新豊へ移転したといわれています(飛行場は1943年6月に完成)。
云い忘れていましたがこの新豊の集落は、現在の空港入口の七原集落(字下里)から、南に約800メートルほど離れた、字松原の畑の中にあります。といっても、現在、新豊の集落はライトマザーという宿が一軒だけあるにすぎない、事実上の廃集落となっています。

1945年に米軍の撮影した新豊の集落の様子を見ると、30軒ほど家々が軒をつられねており、決して大きくはありませんが、それなりに集落としてのスタイルを保っていたようです。尚、集落は平良村(当時)の南端に位置し、500メートルも南に行くと、下地村川満の高千穂地区、カツラ嶺(カザンミ)の集落があります(こちらは今も現存しています)。
第229回 「新豊の井戸」第229回 「新豊の井戸」
【左 1945年米軍撮影 逆さへの字の山の部分が新豊集落。集落奥に丸く井戸も見えています】 【右 1963年米軍撮影 逆への字の傾きが縦になってます。中央やや左の森に隣接した十字路。戸数がかなり減っています】

そんな新豊の集落の話をここまで書いてきて、ふと、新たな気づきがありました。しかも、かなり重大な。。。
海軍飛行場(現在の宮古空港)に土地を接収移転された地域は、飛行場の南側(上野側)ばかりでなく、北側(平良川)にもありました。たとえば腰原や冨名腰です。七原ほどではないにしろ、後に補償問題にも出て来るので接収はあったようです。他にも越地(くいず)という集落もこの時、消失しています(ファミマ宮古鏡原店の裏手に「越地市」という一瞬だけ営業していた店舗の看板が、その地名の名残ともいえます)。

確かに第148回「豊井戸」で取り上げた腰原の集落ネタでも、空港に隣接したエリアというのがよく判ります(腰原の南部)。もしも、この豊井戸のある腰原豊地区(?)の一部が接収されいて、空港の南側に新しい集落と作ったと考えると、「新豊」という集落名がなんかすんなり繋がる気がするのです。しかも、豊井戸のある集落から、新豊へは海軍飛行場の滑走路の西端をかすめて、新豊集落を通り抜け、高千穂のカツラ嶺へと一本道が繋がっています(現在は滑走路が延伸されているので、道は一部しか残っていない)。

七原集落の移転についての苦労話や、戦後の補償問題などの資料はあるので、いくつかをそれとなくチェックしたのですが、細かな接収と移転先について記事を取りこぼしているようで、完全には裏が取り切れていませんでした。自分でこね回しているうちに、だんだんとこちらの説が真説かもしれないと、書きながら気づいてしまいました。
字史とかあれば振り返れそうなものなのですが、すべての集落に字史があるわけではないので、こうした細かいネタにはなかなか短時間で当たれず、時にこんなことが起きます。えー、この件に関しては、個人的にもちょっと宿題にして、ひとまず用意しておいたネタを処方して、逃げるようにして〆てゆきたいと思います。
第229回 「新豊の井戸」
井戸のネタなので、水っぽいネタです。新豊の井戸の少し南に、古いセメント瓦の畜舎があります(元は住居兼。空中写真にもある)。ここに2メーター四方のコンクリート製の天水タンクがありまして、その壁面にこんなことが書いてあります(今は一部の壁面を壊して、小型農機を収納する小屋かわりに改造されている)。

「使って清らか、飲んで健康 一九五四年九月弐七日 建設」

1953年から地域的な簡易上水道が積極的に整備されはじめ、1965年に宮古島上水道組合が誕生して、本格的な上水道の敷設がはじまるまでは、人々の生活には井戸やこうした天水タンクが重要な役割を占めていたことが、なんとなく伝わってきます。特に1960~70年代は大旱魃と島を、直撃する猛烈な台風が発生しています(子年の大旱魃卯年の大旱魃宮古島台風)。
第229回 「新豊の井戸」
もうひとつ。こちらはもう少し深い趣味系。
この新豊の集落(跡)から西に400メートルほどのところに、雑木林に覆われた浅めの陥没ドリーネがあります。周辺の一部は造林されており、見た目にはよく判りませんがここに、トゥニガーアブという洞窟がひっそりと隠れています。
ドリーネの北向きの壁面に開口した洞口からS字状に続く洞穴で、全長48.5メートルとそこそこの大物洞穴(入口には不法投棄か多い)。洞内への土砂の堆積があることから、雨などの流れ込みも多いとみられます。また、鍾乳石の発達も特にないので、物好きじゃなきゃ行くようなとこでない上に、洞奥には6メートルほとの縦穴もあるので、徒手空拳で最深部まで潜ることはできませんが、なかなか楽しいプチ・ケービングが出来ます。
第229回 「新豊の井戸」第229回 「新豊の井戸」
第229回 「新豊の井戸」第229回 「新豊の井戸」

【資料(再掲)】
「集落(スマ)を歩く」 七原(上) 七原(中) 七原(下) (宮古新報2012年)
 とある宮古の巡検雑記 スタパ版08 2014年01月03日

※現在の「新豊の井戸」は畑の中に隠れており、サトウキビが刈り取られた時期にしか見ることは出来ません。




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