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2019年03月19日

第225回 「紀念・七原井」

第225回 「紀念・七原井」

今回はひさしぶりに井戸ものをやりたいと思います。あっ、ちょ、待って。今回ご紹介するのは、なかなかの大物なのです。文献などからその存在は確認していたのですが、顧みる人のない場所だっただけに、島の猛烈なグリーンモンスターに襲われて藪に埋もれているのでした。ビューガッサ(くわずいも)を薙ぎ倒し、蚊に悩まされながら、遂にたどりついた降り井戸(ウリガー)の名は七原井。そこにある古い石碑を見るために行ってきました。
第225回 「紀念・七原井」
七原井はその名の示す通り、海軍飛行場(現・宮古空港)を建設するために、集落が接収され住民は移転を余儀なくされた、悲運の集落で使われていた共同井戸です。移転した現在の七原は鏡原中の南側附近で、七原コミュニティーセンターがあり、東の嶺(ラーメンてぃだの脇の坂を登った上)には七原御嶽があります。
また、一部の人びとはもう少し空港に近い新豊(にいとよ)に、新たに集落を築きましたが、現在は戸数もなく限界突破集落と化しています(空港南部のクロネコヤマトの南方、ライトマザーのあたり)。※他にも親類縁者を頼って別の集落に散っていたそうです。
しかし、それでも旧・七原集落の痕跡は今も空港の周囲に根強く残っています。御嶽や霊石、そして井戸が残っています。
第225回 「紀念・七原井」第225回 「紀念・七原井」
【左 宮古空港のタクシープールの南側にある霊石】 【右 空港入口にある御嶽に掲げられている旧七原集落の地図】
第225回 「紀念・七原井」第225回 「紀念・七原井」
【左 空港敷地内に向かって、金網に囲まれた御獄への道】 【右 道の奥にある、幻のスマッチャーサトゥ御嶽】

尚、今回の話には前承があります。
第154回「地モリ井戸新設由来」で紹介した地盛井です。こちらは明治33年(1900年)に地盛集落と、その隣だった七原の集落の人々が利用する井戸として、地盛集落近くにウリガーが掘られました。
しかし、いくら隣りの集落とはいえ、七原集落の位置的は現在のターミナルの駐車場あたりでしたので、地盛井までは少し遠く、また七原集落の専用の井戸ではないことから、改めて七原井が掘られたようです。
第225回 「紀念・七原井」第225回 「紀念・七原井」
【左 紀念の文字と年号が書かれ、名前がずらりと並んでいます】 【右 横面。やや彫り込みが浅く判りづらいいです】

井戸のそばにたてられている石碑によると、「明治三十九年四立」とあります。西暦に直すと1906年(簡易なものですが意匠が施されているので、こちらが自分は正面だと思いましたが、仲宗根将二著作の「近代宮古の人と石碑」によると、この石碑を見た砂川明芳氏はこちら側を裏としていました)。
地盛井に追随するようにして掘られたことから、降り井の雰囲気は似ているものの、乾いたイメージの地盛井に対して、七原井は湿ったイメージを受けます。
第225回 「紀念・七原井」第225回 「紀念・七原井」
【左 降り井の底まで伸びたガジュマルの根。その向こうに井戸が見える】 【右 二股の入口。七原側の道から。向いの左端が地盛側の道】

とちらの井戸も円柱状の大きな縦穴に地上から真っ直ぐ降りてゆく階段という構造になっていますが、七原井は階段の上部で二股に分れており、階段の向きから想像するに、七原集落側(西向き)と地盛集落側(北東)の二か所へ分岐しているよようです(地盛井は南西方向に1か所)。石碑はそのふたつの道が合流した場所に建立されています。
もっとも、地盛井との距離を考えると、七原集落にとって七原井が掘られたことで便利になったといえるほど近くなったという気がしません。車社会の現代だからでしょうか。昔のように降り井の底から汲み上げた水を運ぶことを考えたら、十分に近くなったといえるかもしれません。
第225回 「紀念・七原井」第225回 「紀念・七原井」
【左 階段を降りた底にある掘り抜き型の井戸】 【右 井戸に蓋をする苔むした切石】

石碑には表の建立年号(明治39年/1906年)のほかに、裏面には「紀念 大正七年十二月」と刻まれており、西暦に直すと1918年になります。前述したように設立よりもあとの大正七年にの日付。この時なんらかを「紀念」して碑を建立しているものと見られます。
時代的には1903年に人頭税廃止された直後に井戸が完成。その廃止から15年後が大正七年で、第一世界大戦が始まった年になります。想像をたましくしても、残念ながらこの謎が解けません。
尚、石碑には年号の他にも記述があります。
「伊良皆金、与那覇金、西里善、久貝加味、伊良皆加那、島尻蒲戸、池村加根、西里金戸野、外百名」と女性のおぼしき名前がずらりと並んでいます。書き切れなかったのか、碑の横面にも「長崎松、玉寄加那」ふたりほど書かれています。当時は大切なもの、大事なものを名前につける風習だったので、ある意味、この時代のキラキラネームっぽいですが、ふたり目の西里は「かねどの」でしょうか。鍛冶屋にして農耕の神であり、繁栄の神の名が「金殿」なので最強かもしれません。
ともあれ、「近代宮古の人と石碑」の言葉を借りるならば、「どの名も典型的な庶民の名であり、壮観そのものです」と結んでいます。
第225回 「紀念・七原井」第225回 「紀念・七原井」
【左 降り井の底から見上げる“壁”】 【右 井戸端から見上げる階段】
第225回 「紀念・七原井」
【旧・七原集落の様子。1945年頃に撮影された米軍の空中写真を加工】

【関連石碑】
第154回 「地モリ井戸新設由来」
第150回 スペシャル企画「霊石」




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