2019年02月12日
第220回 「(伊良部小)百周年記念碑」

まもなく平成最後の卒業式の季節がやって来ます。それはこの島の学校にとって、文字通りに最後の卒業式となります。なぜなら、この島。伊良部島にある4つの小中学校はすべて統合され、春からは「結の橋学園(ゆいのはしがくえん)へと生まれ変わるからです。
つまり、今が見納め!学校石碑。今回から4回にわたって、消えゆく島の学び舎の石碑を追いかけてみたいと思います。
今回はご紹介するのは、伊良部島で最初の学校として、1886(明治19)年に開校した、伊良部小学校の校門にそびえる百周年記念碑です。計算すると、2019年で開校133年目となりますが、これは北小・平良第一小の1882(明治15)年に次ぐ歴史があります(厳密には、1886年4月16日の狩俣小。同年11月13日の下地小に次ぐ、5番目の11月27日開校)。
開校当時は現在の国仲交差点北側にありましたが(伊良部郵便局側に校舎、おでん綾側に校庭があったといわれています)、1954(昭和29)年に現在の校地(字長浜)へと移転します( 第19回「公教育発祥之地」)。
初代校長は執行生駒(しぎょういこま)、肥前国(佐賀県)出身の教育者で、1901年に急逝した下川貞文(凹天の父)の友人(同僚)でもありました。
また、伊良部小と切っても切れない人物としては、国仲寛徒(くになかかんと)をおいてほかなりません。
寛徒は第4代の校長(1897年に訓導として着任。1901年に校長を兼任。1907年に佐良浜小へ転任)であり、当時、平良にしかなかった高等科(小学校は初等科4年制のみでしたが、高等科の4年がプラスされ8年となります。後に初等科6年、高等科4年へ変更)の設立に尽力しました。そして1908年の特別町村制によって伊良部村が設立されると、寛徒は初代村長に任ぜられ、学校の前を通る「五箇里道」(伊良部-佐和田間)を村初の公共事業として開通させます。
さすがに学校の出来事だけで133年もの歴史があるので、学校沿革史はなかなか読みごたえがあって楽しいのですが、面白さに任せてこれをつらつら書いてしまうとページが尽きてしまう(Blogなので物理的に尽きることはないけど)ので、興味のある方はぜひ図書館で「宮古教育誌」(宮古連合区教育委員会 1972)を紐解いてみてください(あと、伊良部小百周年記念誌 1988)。
近年なかなか見かけないコンクリート製のタワーものです。頂頭部には羽の生えたペン先がモチーフになった、伊良部小の校章が据えられ、「豊かな心 たくましい体 正しい考え」のスローガンが刻まれています。あまりに大きく台座部分が画角に入り切っていませんが、なかなか面白い形状をしており見ごたえがあります。創立百周年記念誌によると、完成当時は全体が輝かんばかりに白く塗られていました(左は記念誌のグラビアより)。
寄贈は(株)奥浜組代表取締役、奥浜幸雄氏で、昭和61年11月27日に贈られました。奥浜氏は国仲交差点の角にある「公教育発祥之地」でも同一の日付で贈り主として名前があります(こちらには肩書なしですが、文中には元伊良部商工会会長と書き留めてあります)。どうやら、伊良部小学校百周年記念事業期成会の会長をつとめていたようです。余談として先週金曜日の「島の本棚」で紹介された、「伊良部町商工会のあゆみ」の発行者としても名前があがっている地元の名士のようです。
そしてさすがに百周年。これを記念する石碑か他にもいくつかありました(普通はひとつにまとめそうなものだけど、寄贈者が異なるので、なにか色々とあったのかもしれません)。
まずはこちら(写真左)のPTA会長豊見山恵栄氏の寄贈した石碑。さらに、「伊良部小昭六同窓会」が寄贈した一対のシーサー(写真⇒)。台座の石には「強く」「正しく」と刻まれています。
3つも百周年の記念碑があるとは驚きです。伊良部の各字にある御獄はどれも立派で大きな鳥居も据えられていまます。これは島の人たちが進んで寄進して、立派に仕立て上げる島(集落)を想う文化がとても高い聴きました。どことなく小学校の記念碑にも同じような心理が働いたのかもしれません。
さてさて、学校と云うのは色々な石碑が建っていますが、統廃合されてゆく学校の碑はいずれどうなってしまうのでしょうか。校地の跡地利用についても不明なので、その行き先も気になります。それならばと、記録をしてしまえということを唐突に思い付き、まずがーと校内ツアーもしながら紹介してしまおうというところにたどり着きました。実際は情報過多でツアーになっていませんが、読むよりは行くが易し、ぜひ、お勝手ツアーに訪れてみてほしいと思います。これがなかなかに面白く楽しいのです。宮古の学校は都会とは違って、土日でも門は閉められておらず、校庭を巡る学校ツアーが可能です(グラウンドなどがクラブ活動に使われていることもありますし、近所の人たちが公園かわりに散歩に訪れていたりするので、あまり変なことさえしなければオールフリーだと信じています)。
まずは、周年モノ。百周年の影に隠れて、まったく目立たない存在ですが、体育館近くに建つ、ボロボロのこちら。「つよい体 美しい心 よい行い」のお言葉が書かれた、鉄筋むき出しのこちらは、創立九十周年記念に建てられた石碑。わずか10年しか違わないのですが、この現状はちょっと驚きです。そして寄贈者はまたも出ました奥浜幸雄氏です。凄いですねぇ~!。
続きまして、学校につきもののスポーツものをまとめて。
「一球入魂」と大書きされた1999(平成11)年の「第19回ライオンカップ全日本バレーボール小学生全国大会出場記念」の石碑。よく見れば、第19回ライオンカップ沖縄大会優勝、新報杯オリンピック男子バレーボール優勝、第22回琉銀カップ小学生バレーボール6人制大会優勝と、沖縄小学生男子バレーホール3大会に優勝という、まさに無敵状態です。
次はやや控えめに「絆」と題された2009(平成21)年の碑では、第28回全日本バレーボール小学生大会宮古地区優勝、2008徳洲会カップ第28回全日本バレーボール小学生大会IN沖縄3位、第23回全九州小学生バレーボール男女優勝大会 3位リーグ準優勝、りゅうぎんカップ第31回沖縄県小学生バレーボール宮古地区大会優勝 県大会IN八重山 3位という成績なのですが、全日本と全九州があり、地区大会と県大会かある(全国まではいけてない)ので、非常に判りづらいです。調べた限り、徳洲会カップの小学生大会は中頭地区しか開催されていないから、カップスポンサーだったのではないかと予想(正解は不明)。そして全日本の全国大会は必ず東京体育館なので、IN沖縄は全国大会の沖縄県予選(宮古地区優勝したから出場した)と思われるので、「第28回全日本バレーボール小学生大会沖縄県大会3位」と思われます(3位なので全国には届かず)。また、りゅうぎんカップはこの年は八重山開催なので、宮古地区大会に優勝して、宮古代表として八重山で開催された県大会に出場し、3位だったということのようです。「IN~」ってなんかかっこいいけど、せっかく後世に残るのだから、きっちり記録しておいてほしいものです。
もうひとつバレーボールの石碑。今度は2011年(平成23)年度の「伊良部クラブ」の石碑です。こちらは第34回りゅうぎんカップ沖縄県小学生バレーボール優勝。第26回全九州小学生バレーボール男女優勝大会桜島リーグ2位。第31回ファミリーマートカップ全日本バレーボール小学生大会沖縄県大会3位というもの。ひとつ前の2009年の石碑でも、しれっと「3位リーグ準優勝」と謎の単語が全九州の大会にありましたが、2011年の「桜島リーグ2位」と似て非なるものと理解できるのは、大会の対戦形式が知るものだけでしょう。
この大会(ま、大会名も判りづらいけど)は、参加24チームが予選リーグとして3チームづつに分れて総当たりの試合をし、予選1位の8チームが決勝リーグのトーナメントへ進みます。予選2位・3位はそれぞれ2位の8チームが戦う桜島リーグ、3位の8チームが争う霧島リーグのグループで、それぞれトーナメント戦に挑み、順位が決定します。つまり、予選が2位だったチームはトーナメントを勝ち抜いて優勝しても、2位グループのトップでしかないという、優勝株の量産システムとなっており、なかなか判りにくいシステムなのです。
しかも、大会は全九州の各県持ち回りなので、2・3位のトーナメントリーグ名はご当地名が付けられるので、なおのこと初見殺しの大会といえます。第26回全九州小学生バレーボール男女優勝大会 試合資料pdfがDLされます)。
そしてもうひとつ。1999年のライオンカップと、2011年のファミリーマートカップは、同じ大会であるという複雑怪奇。これに関しては次回、突っ込みしながらやることにします。違う意味で、侮れません、小学生バレーボール!。
バレーボールの他にも、ミニバスケでも好成績を残しており、第17回全九州ミニバスケットボール大会(佐賀)3位入賞記念、第19回全九州ミニバスケットボール大会(長崎)3位入賞記念がそれぞれ建立されています。
こうしたスポーツ系のクラブ以外は、あまり成績が好評でもなかなか碑が建つまでには行かないのですが、時に学校では文系の森が出現します。伊良部小では「俳句の森」でした。しかし、得てしてタイトルだけで中身がないことが多く、残念ながらここの森も木が茂るだけで一句もありませんでした。
そうそう、忘れてはいけません。学校にも御獄がかならずと云っていいほどあります。近年リニューアルされたばかりの祠が鎮座していました。祭神はズバリ「学門の神様」です。生徒にとってはありがたい神様なので、毎日拝んだらテストの点数上がるかもしれませんね。

以上が、ほぼ校門前の前庭に点在してる石碑です。学校関係の碑はどこも数が多いとはいえ、狭いエリアに大小さまざまな碑がこれだけ密集しているのも珍しいです。石碑ではありませんが庭を奥へ進んでゆくと、たまに小学校で見かける「郵便局の簡易保険」の日時計があります。これは宮古でもいくつが見た記憶があるので、改めて探してみたい気もします(少なくとも北小にはあった)。



さらに奥へと侵入します。石碑はさすがに打ち止めですが、渡り廊下の屋根の上に謎のメルヘンオブジェ。もうなんかカオスがかっています(見えにくいオブジェの下の方に、~周年記念と設置理由が書かれているのですが、残念ながら角度が悪くて読めません。知っている方教えてください)。
のはずですが、資料として手に取った百周年記念誌をペラペラとめくっていたら、こんなものが出て来たではありませんか!。
グランドは校舎裏にありますが、ざっと眺めたところそれらしき石碑は見当たりません。もしも、これが現存しているのなら、かなりレアで貴重な碑なので自称・石碑ハンターとしては探し出してみたいところ。
なにしろ琉球政府時代、ランパート高等弁務官関係は、新里の弁務官道路、宮国のランパート通り(道路は現存するも碑は消失)。ランパート滑走路の碑(1971年 旧・多良間空港脇に現存しているはずだが、再発見できていない)に次ぐものとなるのです。この碑に関して情報をお持ちの方は、些細なことでも構いませんので是非とも教えてください。
おしまいは、伊良部小学校アルパムです。

次回は佐良浜小学校編です!おたのしみに~!
Posted by atalas at 12:00│Comments(1)
│んなま to んきゃーん
この記事へのコメント
渡り廊下上のメルヘンオブジェですが、設置理由等はわかりませんが元々は音の鳴る時計でした。(元気一発の部分にアナログ時計がある感じで、設定した時間がくるとキーンコーンカーンコーンと鳴っていました。)
この記事のおかげで久々に母校の姿を見れました。
ありがとうございます。
この記事のおかげで久々に母校の姿を見れました。
ありがとうございます。
Posted by P at 2020年10月03日 00:27