2016年04月19日
第79回 「弁務官道路」

新シリーズ「謎の石碑-未解明ファイル-」も3回目となりました。皆様の叡智をもって解明することができたら嬉しいと意気込んでいますが、残念ながら今のところタレコミもなく、解決にも至っていませんが、どうしてもこの手のものは時間がかかるので、それは致し方ないと思っています。
さて、今回は美しい緑のフィールドに小さなモノリスのごとく、にょきっとたったひとつそれだけが建っている「弁務官道路」と記された石碑です。

なだらかな傾斜に手入れの行き届いた芝生といえば、ゴルフ場しかありません。そう、この「弁務官道路」と記され石碑は、上野は新里のシギラカントリークラブの8番ホールのグリーン脇にひっそりと建っています。
この石碑の存在を知ったのは、宮古島市史第一巻「みやこの歴史」の冒頭にあるグラビアページの「現代(米軍政下の暮らし)」に掲載されていた1枚の写真を偶然、目にしたことでした。その写真も曇り空の芝生にぽつんと建てられた石碑の姿があるだけで、『「弁務官道路」碑(上野新里)』とだけキャプションされているだけでした。
この1枚の画像から、現場を確定すべくプロファイリングします。写真の雰囲気と新里の地域性から、場所はゴルフ場(新里にあるのはシギラのみ)だとすぐに気付きましたが、18ホールもある広大なゴルフ場から小さな石碑を探し出すのは、普通なら困難な作業ですが、なんとなくこの斜面の雰囲気に見覚えがあり、シギラカントリーの8・9・10番ホール付近にあたり(新里交差点を南下したあたり)をつけてGoogleストリートビューで捜索すると、あっさり発見することが出来ました。
しかし、周辺はゴルフ場として開発されているため、石碑以外の痕跡がまったくありません。石碑にも碑文の他には、竣工された1971年10月10日の日付だけしかありません。もっとも、この開発の波によく呑み込まれず残ったものだと感心すらしました。
そもそも弁務官道路とはなにか。調べてみると弁務官資金というもので作られた道路のことだそうです。ここでいう弁務官とは琉球列島米国民政府のトップである高等弁務官のこと。色々と説明が長くなりますが、琉球列島米国民政府(USCAR)は琉球政府の上部組織で、発足当初は琉球列島米国軍政府と呼ばれた米軍による軍政統治機構(つまり、米軍>琉球列島米国民政府>琉球政府という入れ子構造)。もちろん米軍の意思を、島民を統べる琉球政府に下達させる機関のトップである高等弁務官は軍人なので、事実上、沖縄で一番偉い人ということになります。
そして弁務官資金は高等弁務官の裁量ひとつで決定される公共性のある事業に使われる予算のことで、ある意味、米軍の統治に対して好意的であるかどうかで施行が決まるアメともいえます。そのため作られた道路や建物に予算を承認した軍人の名前が使われています。宮古でいうならばマクラム通り(平良港から市役所前を経て、北給油所を右に曲って、ヤコブ保育園からサンエーカママヒルズに至る、旧国道390号線、現県道243号。尚、一節には当時、軍政府が置かれていた、坂の上の宮古島気象台までだったという話もある)や、オグデン会館(現在は市役所に建て替えられたしまったが、建物に掲げられていたプレートは博物館に展示されている)がありますが、これらの名前は実は弁務官ではなく、その下部組織であ宮古民政官府長の名を冠したものらしい(階級も将官と佐官の差があるっぽい)。
宮古民政官府長は、琉球列島米国民政府の宮古地区を統括する部署(なので琉球政府宮古地方庁より上)となるので、こちらはこちらで宮古で一番偉い人ということになり、弁務官の意思を汲んで宮古を統治しているので、島的には割と直接的に目に見えるトップといえます(弁務官は基本、沖縄本島にいる)しかし、ここらへんになると、軍政府の人事になってしまうので簡単に閲覧できる資料がなく詳細についてはいまのところ未明です。
では次に、この弁務官道路を作る資金を出した、高等弁務官とは誰なのかを推察します。竣工年月日が沖縄返還の前年1971年なので、最後の高等弁務官であるジェームス・B・ランパート陸軍中将(弁務官任期は1969年1月28日~1972年5月14日)ではないかと考えられます。
沖縄公文書館のデジタルアーカイブズを「ランパート」で検索し、宮古に関係のありそうなものを見てゆくと、少なくとも5回ほど宮古方面に視察に来ていることが判りました。
1969年3月12日。就任約ひと月ちょっとしての初来島。
『宮古飛行場に到着後、宮古婦人連合会の歓迎を受けるランパート高等弁務官(右)』
続いて1969年7月9日~10日に再訪。
昼は伊良部、大神、上野、城辺など島内を精力的に廻っり、夜は歓迎セレモニーがあったようです。
明らかにクイチャーを披露した感じです。フェンスの感じから野原駐屯地か?
『宮古を訪れる高等弁務官』
『ランパート高等弁務官を歓迎する伊良部小学校生徒』
『伊良部へ向かう船上、宮国泰良宮古地方庁長(右)と歓談するランパート高等弁務官(中央)』
『大神婦人会の歓迎を受けるランパート高等弁務官(左端)。左から2人目は平良重信平良市長』
『「独逸商船遭難之地」を訪れるランパート高等弁務官』
『城辺小学校の生徒に話しかけるランパート高等弁務官(中央)。後方には豊見山恵永校長、ロングフェロウ宮古民政官府長、フォールズ高等弁務官特別補佐官の姿も見える』
1969年11月19日には、池間島を訪れています。
『池間郵便局前にて。ランパート高等弁務官(左から2人目)』
1970年4月30日~5月2日に来島。
4月30日は上野宮国。
5月1日は多良間島へ渡っています。
5月2日は島尻、高野の豪雨被害を視察し、琉米文化会館や人頭税石を見て廻っています。
宮古、最後の記録は1970年 6月27日
平良市島尻で
『ランパート高等弁務官(中央)が米陸軍活動部隊によって建設された排水溝を視察』
と、前回の視察の成果を見ています。
その後(28日)、多良間島と水納島へ視察に向かっています。
結局のところ、1970年10月10日の竣工された新里の「弁務官道路」に関する写真は出て来ませんでしたが、アーカイブズを見ていたら、1970年8月9日に「ランパート道路開通」というものが出てきました。少しだけ色めき立ちましたが、こちらは国頭村の鏡地(オクマ)から最北端の奥集落まで、舗装道路が開通したというものでした(現在の国道58号線と思われる)。
『国頭村の鏡地と奥間を結ぶ舗装道路が開通。ランパート高等弁務官(左端)』
『国頭村の鏡地と奥間を結ぶ舗装道路が開通。ランパート高等弁務官(左端)』
で、実はさらっと一度、流しましたが気になる写真がひとつあったのです。
それは1970年4月30日の宮国のものです。宮国は新里の隣りの集落。そこでランパートは農道の開通式に出席しているのです。
『農道開通式でテープカットするランパート高等弁務官』
『上野村宮国の農道開通式にランパート高等弁務官が出席』
『ランパート高等弁務官(中央)。宮国公民館にて農道開通式』
そしてなんと、
『上野村シギラビーチで記念植樹するランパート高等弁務官』
と、ランパートはシギラ(エリア的には新里に入る)にも足を運んでいるのです(もうこの時の植樹した樹とか残ってないんだろうなぁ~)。
竣工した日時も異なり、農道と明記されていることから、弁務官道路ではなさそうですが、国土地理院の1963年と1977年の航空写真を見比べてみると、宮国(現在のドイツ村付近)から新里のシギラビーチまでの直線道路が出来ている(その後、南西楽園の開発で痕跡らしきものは、現在のドイツ村付近から温泉施設までの直線道路あたりのみ)。
一方、弁務官道路の石碑は、シギラビーチから北向きに新里集落へつながる道(この道は古くからある)の崖下(位置情報からの推定で、現在はこの道路も県道235号線以北にしか、痕跡は残っていない)にあることから、可能性は残るものの断定することはできません(このシギラビーチはかつてディスコがあった場所だったと記憶していますが、こちらも明確な資料がなく追うことのできいな物件のひとつなのです)。
とはいえ、記録魔の米軍が行ったことなので、資料は必ずきっとどこかにあると思われます。しかし、二重三重に開発が進んでしまったエリアなので、現状から痕跡を見つけることはかなり困難でしょう。けど、記憶の中にはきっとまだ残っているはずなので、噂の域を出ない弁務官の名を冠したランパート通りを解明してみたいものです。なにとぞ皆様、よろしくお願い致します(なんとキャラウエイ通りというものあるらしい)。
Posted by atalas at 12:00│Comments(2)
│んなま to んきゃーん
この記事へのコメント
宮古民政官府の事は覚えています。父が勤めてました。おじはそこでコックをしていました。本土復帰前の1971年には、ここで勤めていた人たちは当時としては破格の退職金と就職先を紹介されて円満に第二の人生にあゆまれています。施設跡地は国の出先機関や気象台が移転したのではなかったでしょうか。おじがまだ健在なのでランパート道路のことしっているかもしれません。
Posted by 村下悦子 at 2016年04月19日 17:41
村下悦子様
コメントありがとうございます。
どうやら、1945(昭和20)年4月4日に、カママ嶺から海軍部隊本部気象班(二重越)に移動しますが、終戦の時点で元の場所に戻っているらしいので、おそらく市内が空襲で焼かれてしまい、ろくな建物が残っていなかった中、気象台の建物は残っていたことから、米軍に接収されたのではないかと思われます。
ランパート道路に関しては掲載直後に新たな資料が少し出て来たので、整理出来次第、どこかで報告する予定ですが、ランパート道路も含め、気象台の当時の様子なども興味津々ですので、ぜひお話を(笑)。
コメントありがとうございます。
どうやら、1945(昭和20)年4月4日に、カママ嶺から海軍部隊本部気象班(二重越)に移動しますが、終戦の時点で元の場所に戻っているらしいので、おそらく市内が空襲で焼かれてしまい、ろくな建物が残っていなかった中、気象台の建物は残っていたことから、米軍に接収されたのではないかと思われます。
ランパート道路に関しては掲載直後に新たな資料が少し出て来たので、整理出来次第、どこかで報告する予定ですが、ランパート道路も含め、気象台の当時の様子なども興味津々ですので、ぜひお話を(笑)。
Posted by atalas
at 2016年04月21日 08:46
