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2017年02月07日

第121回 「比嘉財定先生之像」

第121回 「比嘉財定先生之像」

なにを成した人なのか。と問われたら、手近な史料で調べてはみたもののいまひとつよく判らないとしかいいようがありませんでした。けれど、彼は村(字)の偉人として奉られています。きっとそこには記録には残らないなにかがあるような気がしました。

第121回 「比嘉財定先生之像」
【左】比嘉地域総合施設(公民館)前にある胸像「比嘉財定先生之像」
【右】集落の南西、目抜き通り沿いに建つ、「比嘉財定生誕之地」の碑


比嘉財定(ひがざいてい)。
父・財慈、母・メガの七人兄弟(男3女4)の長男として、1881(明治14)年3月10日に城辺村比嘉で生まれた人物です。

1893(明治26)年、西ミスヤーの比嘉財定、ミーガマヤーの比嘉財全、ウヤキヤーの伊良皆方盛の3名が、初めて比嘉から福里尋常小学校(後の城辺小学校)へ通います。名前の前にあるカタカナは屋号なので、財定と財全は名前がとてもよく似ていますが、兄弟とかではなく別の家の者です(なんとなく親戚慣関係にはありそうな感じしますけれど)。尚、現在の比嘉は西城学区に含まれています。

1896(明治29)年に比嘉財定、比嘉財全、伊良皆方盛の三名が福里尋常小学校を卒業します。
ちなみに、1890(明治23)年に福里簡易小学校として開校し、財定が入学する前年の1892(明治25)年に、福里尋常小学校と改称。城辺を冠するようになるのは、1941(昭和16)年に城辺国民学校と改称されてからですが、城辺町史第一巻資料編に掲載されている学校沿革史には、1941(昭和16)年から1943(昭和18)年までの記録が欠損しており、詳細については不明ですが、1941年に国民学校令の勅令が下っているので、そのタイミングなのは間違いないと思われます(学校のHPには記載されている)。そして戦後、1946(昭和21)年に現在の城辺小学校となります(内地であれば1947年の学校教育法の発布のタイミングなのですが、すでに時代的に切り離されているため、やや事情が異なりますが、煩雑になるのでここでは省略します)。
尚、福里、保良、新城、比嘉、長間、西里添を福里学区として開校(城辺ではもうひとつ、南部に砂川学区を設置)しましたが、志学者が増え、保良、新城や長間に文教場が設けられます。その後、保良と新城は福嶺小学校に統合、長間はキャーギに移転して西城小(西城辺)として独立します。

なんとなく城辺小の話に転じてしまいましたが、学校沿革史で見つけた財定のいた頃の気になるエピソードを少し。
1893(明治26)年の在籍生徒数は、1年129人、2年17人、3年30人、4年24人と、これまでに比べて大増員されました。その後の“ふりわけ”のためなのか、このタイミングで「大試験」が実施されます。なんと学業優秀者には、筆と白紙、算盤、石盤などが賞品として出たそうです。財定の成績はどうだったのでしょうね(当時の小学校は4年制。高等科の設置は1902年)。
そして同年9月に新法令の発布により、4学年あるのに3クラスに再編され、3年30人と4年24人のクラス、1年59人と2年17人のクラス、1年70人のクラスという、とても複雑な編成となりました(先生の人員の都合か?)。それにしても70人学級とか、今の倍する人数の教室ってどんなだったったのでしょう(しかも校舎は幾度も台風などで壊れ、掘立小屋の仮校舎になっていまた)。

この時の3年4年のクラスを受け持っていたのが、執行生駒(しぎょういこま:1860-1931)でした。執行は肥前国(佐賀県)の出身の教育者・政治家で、平良小や下地小にて訓導を歴任し、1892(明治25)年から福里小で校長兼教導を勤めます。1901年に急逝した下川貞文(凹天の父)とは友人で、追悼式典にも参加しています。執行はその後、1908年の特別町村制の施行に伴い、初代城辺村長に任命され、政治家へと転身しています。

寄り道が過ぎましたので財定に話を戻します。
財定は宮古島高等小学校(現在の平一小)を経て、首里にある県立沖縄一中(現在の首里高校)へ進み、1903(明治36)年に卒業します。さらに熊本の第五高校(後の熊本大学)へと進学しました。
財定はここで「次郎物語」の作者となる下村湖人(1884-1955)と出逢い、同じ下宿に暮らす親友となります(湖人も東京帝国大学に進み英文科を卒業している)。湖人は「次郎物語」の第5部を完成させたところで亡くなりますが、第6部の構想として、戦地から戻った次郎が沖縄に渡り、沖縄の運命とともに生きるというストーリーを考えていたといわれ、沖縄を舞台にする構想は財定の影響だったとも云われています。

1906(明治39)年、東京帝国大学法科大学英法科に財定は入学します(東京帝国大学法学部となるのは分科大学制が廃止される1919年)。
ここで財定は日本の民俗学の祖、柳田國男に逢い「比嘉村の話」をしています。どのような経緯で柳田が財定の話を聞くことになったのかは定かではないそうですが、この時の東大には財定の中学時代の先輩である東恩納寛淳らが在籍していました。また、柳田は東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、農商務省に勤め全国各地を巡っていたそうです。しかも、笹森儀助の「南島探検」を読み、南へ関心を募らせていた頃のようで、財定からの話を聞いて沖縄に関する本を読みだしたというから、繋がりの妙とでもいいますが、非常に興味深い展開を魅せてくれます。

1910(明治43)年10月に財定は東大を卒業します。当時の大学の卒業は7月だったそうなので、胸像や集落史などに「首席」の文字が躍っていますが、少し遅れて卒業となった財定が、本当に首席だったのでしょうか。個人的には少し怪しい気がしています(この年の英法科の卒業生は29人、10月卒は2名とのこと)。
ともあれ東大を卒業し、奇しくも柳田と同じ農商務省(1925年に現在の農林水産省となる農林省と、現在の経済産業省となる商工省に分割される)に入省(1911年)し、熊本の営林署、金峯山小林区署長として赴任します。農業は当時の最先端産業だったので、確実に財定はエリート街道だったのではないかと思われます。
赴任先の営林署の名前にあがっている金峯山は、熊本市の西部、有明海に面した660メートル程の二重式火山(火山活動はない)で、夏目漱石の「草枕」のワンシーンにも登場し(夏目漱石は五高で英語教師をしていた。ただし、在籍期間は1896年~1900年なので、財定と接点はない)、現在は市内に送信されるテレビラジオの送信所がある場所としても知られ、熊本市民に親しまれている身近な山のようです。
尚、営林署は隣の菊池市に置かれている模様ですが(熊本小林区署は菊池営林署を経て熊本営林管理署となっているので)、九州地区を主管する九州森林管理局(林野庁下の国の機関)は熊本に置かれています(福岡勃興以前は九州の中心は熊本だった)。

1914(大正3)年5月、病の為依願退職した財定は、1916(大正5)年に留学の為に渡米しますが、翌1917(大正6)年4月30日。カリフォルニア州立スタリント病院で病没します。享年は36歳。

短い財定の生涯には色々なエピソードはあれど、本人がなにかを成したのかと今一度問われたら、やはりなにを成したかは判りませんと答えるでしょう。しかし、財定は間違いなく道半ばだったことは推し量れるような気がしました。

【比嘉財定先生之像】


【比嘉財定生誕之地】




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