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2016年01月19日

第66回 「人頭税廃止100周年記念碑」

第66回 「人頭税廃止100周年記念碑」

これまで長々と「人頭税にまつわるエトセトラ」シリーズと題して、島内の関係する石碑を巡ってまいりましたが、今回でこのシリーズは打ち止めです。最後はやはり1894(明治27)年3月に人頭税廃止の確約を得た請願団の一行が帰島し、農民たちが総出で漲水港に迎え、鏡原の馬場で盛大な祝宴を開き、クイチャーを踊り競馬(ヌーマピラス)を催して喜び分ちあったと伝えられている、鏡原馬場跡に建立されている「人頭税廃止100周年の碑」の紹介です。
第66回 「人頭税廃止100周年記念碑」
ここは人頭税廃止の歴史を伝える場所でもありますが、鏡原馬場の跡地としての歴史もあります。1873(明治6)年、富川親方規模帳(琉球王府高官の布告)により、農民の乗馬や競馬を禁じましたが、人頭税廃止の宿願達成の余興として島内から優れた宮古馬を集め、禁を犯して宮古島で初めての競馬が開催されました。
現在、馬場はすでに畑となってしまいましたが、石組みの審判台は当時を偲ぶ大切な文化財として保存されています。尚、ここに出てくる競馬は現代の速さを競う競馬とは異なり、「側対歩」の技術に裏打ちされた美しさを競う琉球競技です。
さて、これまで人頭税の廃止請願行動に尽力した人たちに関連する石碑を、このシリーズでは紹介してきましたが、どういうわけか最大の功労者ともいえる中村十作に関した石碑はなく、この廃止100周年の石碑に城間正安と並んで肖像が掲げられているものしか確認されていません。
十作クラスなら銅像が建立されていてもよさそうな気もしますが、島の人ではないから思い入れにも差があるのかもしれません。そもそも十作の宮古島での暮らしぶりなどは紹介されておらず、ほとんど知られてもいません(詳細な史料もなく、wikipediaにも人頭税廃止に尽力した人物として書かれています)。
そこで少ない史料を手繰って、判る範囲ではありますが、時系列で十作を追いかけながら妄想を広げてみたいと思います。

第66回 「人頭税廃止100周年記念碑」1892(明治25)年 真珠養殖の夢を描いて中村十作は先島へやって来ました。当初の目的とされている八重山行きの船中で、製糖技師の田村熊冶と出逢い、彼の紹介で城間正安と出逢うことになりますが、この田村熊冶の素性は八重山担当の製糖技師(正安は1890年まで製糖技師をしていた)ということぐらいしか判りません。田村の奨めで宮古で途中下船し、正安と出逢い人頭税廃止という偉業を成し遂げることになりますが、この時の十作は真珠養殖でひと旗あげようとする“山師”的だったと想像に難くありません。いったい田村はなにを十作にささやいたのでしょうか。

宮古島での十作の足取りは、これまたよく判っていません。唯一、出てくるのは川満亀吉の碑文の中に、「新潟県人中村十作が真珠養殖計画で池間島に滞在するのを幸い、城間と亀吉は中村に指導協力を願う」という一文です。船で出逢った田村から正安を紹介されるというエピソードとだったはずですが、亀吉の碑文のエピソードとは少し変わっています。しかし、十作が具体的に島で何をしていたかが、なんとなく判る貴重な文言といえそうです。恐らく十作は真珠養殖に適した場所を探していたのではないかと考えられます。

十作はここから真珠養殖の野望を棚上げして、人頭税廃止の請願運動に協力してゆくのですが、1893(明治26)年の7月6日~8日と8月25日~27日の二度(本島・慶良間・宮古島・石垣島・西表島・与那国島と沖縄を巡行しており、八重山の行き帰りに宮古に立ち寄っている)に渡って、青森県出身の笹森儀助が宮古島を訪れ、島内をくまなく巡っています。
儀助の訪島目的は製糖振興調査とされていますが、未だ人頭税施行下にあり、1888(明治21)年に甘蔗栽培制限令が撤廃され、正安がサトウキビの普及に尽力した直後(正安は1890年に製糖指導員を辞め、農民になっている)ですから、島の人々の暮らしが過渡期に向かっている島内情勢も観察していたに違いありません。そして儀助は翌年、この沖縄巡行を「南嶋探験」として著しており、人頭税についも言及しています。ここで十作-正安-儀助が一本の線でつながりました(逢ったとされる記述はなくもないがはっきりとはしていない)。

そんな最中、御木本幸吉(真珠のミキモトの創始者)が実験中のアコヤ貝の中に半円真珠が付着している貝を発見します(1893年7月11日)。真珠養殖を目指して来島した十作の耳に入るのは、おそらく請願団として上京(1893年11月3日東京着)あたりだったのではないでしょうか。しかし、十作は東京で請願運動に従事しているので、真珠養殖どころではなかったと思われます。
請願団の活躍により手応えは掴むものの、議会の解散などに阻まれて成果と呼べるところまでは届かぬまま、1894(明治27)年の2月10日には、滞在費の都合により正安と真牛が先に宮古に戻ることを決めます。これも最終的には2月23日に4名して宮古に戻ることになります。

冒頭の祝宴を伝える様子は、この時の4名の帰島を農民総出で漲水港に迎え、廃止に向かう道筋が整ったとして、鏡原の馬場での宿願達成の余興が行われたとされていますが、まだ、この時点では請願の成果は実っておらず、その後は十作がひとりで二度の上京(1894年の4月4日~8月5日と、11月11日再上京。帰着時期は未明)を行い、ようやく1895(明治28)年6月1日の第8回帝国議会にて人頭税の廃止が遂に可決されます(即日廃止ではなく、実際に廃止となるのはもう少し先)。

第66回 「人頭税廃止100周年記念碑」その後、1903(明治36)年に266年間続いた人頭税は廃止となりますが、なんと廃止を待たずに十作は新たな行動を起こしているのです。
1899(明治32)年、十作はなんと沖大東島(ラサ島)へ渡航しているのです。
渡航した理由は不明ですが妄想を暴走させると、請願時に訪れた東京で出逢った南進論者の榎本武揚農商務大臣(1894年2月5日と4月27日)とつながりのある、大東島を開拓した八丈島出身の玉置半右衛門(鳥島でアホウドリを乱獲して短期間に財をなした人物)あたりと、なにかあったのではないだろうかと。それに前年にはグランパス島(宮古島の南方にあるとされていたイキマ島と同じ幻の島を追っていた)を目指していて、偶然にも南鳥島(マーカス島)を発見してしまった、榎本とも懇意の関係にある冒険商人の水谷新六(三重県桑名出身)も沖大東島にやって来ているのですから、もうなんか色々と鼻血を垂らしながら夢想に励むしかないのであります。

ここからは少し真珠養殖の歴史にも触れておきます。
十作は1912(明治45)年に、宮古島・伊良部地先で半円のマベ真珠の養殖を手がけます(一説にはトゥリバーとも伝えられている)。しかし、順風満帆とはいいがたかったのか、1923(大正12)年に十作は養殖の拠点を奄美に求めます。
1910(明治43)年に、奄美大島・東方村(現在の瀬戸内町の東部)の油井小島と、実久村(現在の瀬戸内町の加計呂麻島)の俵小島で、伊谷壮吉と池畑末吉いう人物が奄美で初めてのマベ真珠(半円真珠)の養殖を始めましたが結果は思わしくなく、この事業を十作に譲渡しました。
十作が撤退した宮古の真珠養殖は、地元の人たちによって細々と続けられていましたが、1939(昭和14)年に養殖場は閉鎖されてしまいます。
尚、記録として書かれていたものだけで詳細は不明ですが、十作以外にも真珠養殖に挑む人たちが宮古にもいたようで、1919(大正8)年には渡辺令一という人物が、宮古島伊良部村地先でマベ真珠の養殖を始めたが、1928(昭3)年には事業を中止したとあり、実は意外と一攫千金を狙って南国の島々に渡って来る人たちが多かったようです(寄留商人の歴史などを見ると、今でいう移住ブームの先駆けだったのではないかと思うほどです)。

一方、後に真珠王と呼ばれることになる御木本も、1914(大正3)年にクロチョウ貝による黒真珠養殖を計画。沖縄県下18ヶ所、500万坪あまりの区画漁業権を取得して沖縄進出を計ります。なかでも石垣島の観音崎(フサキ)の養殖場は、度重なる台風被害から養殖先を屋良部崎など転々と繰り返します。
また、1923(大正12)年には宮古島の母貝を石垣に移送して、真円真珠の手術を試みます(宮古にも御木本の養殖施設があったのではないかと思わせますが詳細は不明)。しかし、これは失敗に終わっています。さらに御木本真珠はこの年、南洋のパラオ島においても、約2万個の貝に真円手術を行いますがこれも失敗します(それでもあきらめない御木本は、1932年にも約1万個に手術を試みますが収穫には結びつかなかったようです)。
苦戦続きだった御木本も1925(大正14)に、石垣島の養殖場を川平湾へと移し、ようやく養殖事業を軌道に乗せます。これにより御木本は川平に資源を集中させて事業強化を計って躍進します。

【十作と関係はないが、在りし日の八光湾の真珠養殖。1954~9年にかけて行われていたという記述が別途ある。1957年刊行「沖縄写真案内」より】
第66回 「人頭税廃止100周年記念碑」奄美に養殖の拠点を移した十作は、1925(大正14)年には油井小島に於いてマベ真珠の養殖に成功し、製品をスペインなどに輸出するまでに業績を向上させます。
さらに1931(昭6)年から1934(昭和9)年にかけて、アコヤ貝の真珠養殖の権威であった藤田昌世(御木本に真珠養殖の可能性を説いた研究者の弟子から研究を引き継いだ人物)が加わり、毎年3千個も挿核(真珠の核となる部分)して最盛期を迎えます。また、十作は藤田とともに真円真珠の養殖を試みており、この時の技法は新技法が確立するまで様々に研究されていたそうです。

一時はミキモトと肩を並べる勢いだった十作でしたが、しだいに戦時色が強くなり、1940(昭和15)年に真珠養殖の事業は禁止され、十作は内地へと戻ります。1943(昭和18)年1月22日、京都の自宅にて十作は胃がんにより亡くなります(十作の京都については史料がなく、詳細が判りませんでした)。
生前、十作は人頭税廃止の請願活動について、一切、新潟の実家には語っておらず、十作の死後、1963(昭和38)年に砂川中学校の下地馨校長(当時)からの手紙で、十作の活躍を知ったそうです。その後、谷川健一によって十作の弟、十一郎の日記が掘り起こされ宮古農民代表の上京後の行動が明らかとなりました。こうして色々と調べてみると、中村十作という人物には、まだまだ知られていない謎(なにか)があるということが朧げながら判って来ました。
少し気が早いかもしれませんが、2017年は十作の生誕150周年(1867(慶応3)年2月22日)にあたります。
宮古、新潟、東京、奄美…。今一度、中村十作という人物を“知る”いい機会となるかもしれません。

【関連記事~人頭税にまつわるエトセトラ】
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第59回 「人頭税石碑」
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【参考資料】
第 3 節 まべ真珠養殖 - 鹿児島県 水産技術開発センター(pdf)
琉球真珠 黒真珠への挑戦(1)
笹森儀助と地域振興―『南嶋探験』をめぐって(pdf)
アホウドリと「帝国」日本の拡大(pdf)




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