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2015年12月22日

第62回 「顕彰碑(城辺)」

第62回 「顕彰碑(城辺)」

「人頭税にまつわるエトセトラ」シリーズの四回目は、旧城辺役場前にある「顕彰碑」です。石碑表面に大きく「顕彰碑」と刻まれているだけで、知らなければこれが人頭税に関する石碑だと気づくことはありません。尚、は1961年2月に落成した城辺庁舎の機能は、2004年に落成した新庁舎へ移転するも(後に宮古島市城辺庁舎へ転換)、建物はそのままに残されていましたが2013年、遂に解体され現在は空き地となっています。
第62回 「顕彰碑(城辺)」
顕彰碑の建立は1964年11月3日と思いのほか古く、石碑そのものもそろそろ史跡の指定されてもよいくらいかもしれません。それはともかく、石碑の下部に解説が書かれているので、まずは紹介したいと思います。
<碑文>
慶長の役(西暦1609年)後、宮古・八重山の島民に課せられた人頭税は、ほとんど三百年間にわたって施行された税制で課税額の苛酷な点において世界税制上稀にみる酷悪非道な税であった。この人頭税は、廃藩置県後の明治三十六年一月まで続いて、先島五万余の農民が生活のどん底に呻吟懊悩したが「撤廃運動」が起り、福里出身西里蒲(安政三年三月二日生)・保良出身平良真牛(安政六年十二月三日生)・那覇出身城間正安・新潟出身中村十作の四氏、決然立って運動の先導者となり、当時の交通不便に加え幾多の困難と官憲の弾圧を廃除して、明治二十六年十一月三日上京して貴族院議員公爵近衛文麿・東京専門学校長爵大隈重信を始め広く国民にその窮状を強く訴え明治二十七年第六回帝国議会に沖縄県宮古島島費軽減及び島政改革請願書を提出遂に明治三十五年宮古・八重山の税制改革の立法を実現し「人頭税撤廃」の一大偉業ほ完遂したのである。依ってここに「宮古人頭税の撤廃之碑」を建立して四氏の犠牲奉仕の大精神を子子孫孫に相伝え、以って永遠にその徳を顕彰するものである。
1964年11月3日

少し時代を彷彿させる感じの尖った雰囲気がある碑文になっています。この碑が建立された日付が11月3日となっているあたりはにくい演出ですね(請願団が東京に着いた日)。宮古島から遥々、東京へ行った請願団の足取りが、十作の弟、十一郎の日記によって残されているので、資料から彼らの足取りを紹介して見たいと思います(量が量なのでフォントを少し小さくしました)。羅列しただけでもいかに尽力したのかがよく判ります。それにしても宮古島生まれの西里蒲と平良真牛は、明治の東京の街並みを見て、どんなふうに感じたのでしょうか。そんな史料があれば是非モノで読んでみたいものです。

1893(明治26)年
11月
3日 中村十作、城間正安、西里蒲、平良真牛ら代表4人は東京に着く。芝区芝口2丁目3番地「山城屋」へ投宿。
山城屋はどうやら、現在のJR新橋駅銀座口駅前の国道15号線付近。当時の新橋駅はシオサイトに生まれ変わった旧汐留駅だったので、宿と駅の位置は今とは逆の東側になる。当時の新橋駅前。画面中央の橋が駅名の由来となる新橋。道の奥は銀座。山城屋は市電の走る道路右側の商店街の並びで、ギリギリ写真には写っていない手前側あたり。尚、新橋駅はこの商店街のさらに右真横の奥なので写ってはいない。
4日 十作は正安を伴って弟・十一郎を訪ね、上京の趣旨を伝える。
5日 ~11日 十作ら代表4人は十一郎の下宿に日参し、増田義一を交えて請願書などの制作と運動方法を話し合う。
十一郎の下宿は、神田神保町一丁目あたりだったらしい。
増田義一(1869年11月24日-1949年4月27日)。十作の故郷、新潟県板倉の出身で読売新聞の記者(当時)。1900年に読売を退社し、実業之日本社の社長に就任(1895年から参画していた)。その後、大日本印刷などの創立に参加、日本雑誌協会会長を勤め。1912年に衆議院議員となり(当選8回、日本進歩党所属)。1931年には衆議院副議長となる。

12日 谷川泰代議士に事情説明し、協力を求める。
13~20日 新聞投稿の原稿添削。筆写を託す(20部作成)
17日 下宿を神田仲猿町2番地(現在の神田神保町あたり)の松井宅に移す。
21日 帝国通信社を皮切りに、国民、朝日、自由、毎日、報知、読売、二六、国会、日々、中央、日本各新聞社を歴訪して、宮古の実状を延べ、協力を求める。
22日 日本、国民2社以外の9社一斉に「宮古の惨状」を報道。
23日 国民新聞が報道。
24日 日本新聞が報道。
25日~12月3日 十作兄弟、毎日お互いに訪問し、今後の運動を語り合うとともに、請願書を執筆。

12月
4日 十作兄弟、自由党事務所を訪ね、請願について話す。
5日 貴族院、衆議院に配布するための請願書650部の印刷を依頼(7円50銭)。
6日 各議員への請願書の配布を委託する。
10日 請願書を各議員に配布終了(配布賃、2円80銭)。
12日 帝国通信社に「宮古島惨状」の補遺を託す。
16日 代議士・重野謙太郎に協力を要請。
19日 向こう10日間、衆議院が停会となる(第五回帝国会議)
20日 十作、千住警察より出頭を求められ、翌21日に出頭。議員に配布した請願書に発行人の住所氏名の記載が漏れおり、出版条項に違反に問われる。
22日~27日 十一郎を中心に議会対策のため、沖縄県関係の法律の研究。
28日 内務次官を訪問。衆議院がさらに2週間の停会となり、翌30日に貴族院も停会となる。

1894(明治27)年
1月
5日 議会解散中のため、今後の運動のあり方を協議。
17日 宮古島より初めての便りがあり、総代らの家族の無事を知る。
20日 自由党事務所を訪ね、請願等について協議。
28日 内務大臣に建議書を提出。
30日 近衛篤公爵邸を訪ね、協力を要請し、激励される。
31日 谷千城子爵邸を訪ね、協力を要請。
2月
2日 曽我祐準子爵を訪ね、協力を要請。
3日 鳥尾子爵邸を訪ねるも、病臥中で面会できず。
4日 尾崎三郎、松岡康キ(内務次官)を訪ね、協力を要請。
5日 榎本武揚農商務大臣を訪ね、要請。
8日 佐野子爵を訪ね、要請。
9日 大隈重信伯爵邸を訪ね、要請。金10円と酒をいただく。
10日 第6議会まで待つには滞在費の関係もあり、城間正安と平良真牛の両名を近便で帰ることを決める。
11日 十一郎、増田義一を交え、6人で記念撮影。
12日 副島伯爵を訪ね、要請。
14日 品川子爵を訪ね、要請。
15日 渡辺大蔵大臣を訪ねて要請。大蔵省も租税課員をひとり、実情調査のため宮古に派遣した旨を語る。
16日 23日に4名、いったん宮古に帰ることを決定。

3月1日 衆議院総選挙。
4月4日 十作ひとり上京。弟・十一郎に一木喜徳郎書記官の宮古での調査状況などを語る。
一木喜徳郎(1867年5月7日-1944年12月17日) 内務官僚、法学者、政治家。1894年の「一木書記官取調書」のことと思われる。「一木喜徳郎の自治観と沖縄調査」として興味深い研究論文がある
4月27日 榎本武揚子爵を訪ね、要請。
5月12日 衆議院議長・楠本正隆、副議長・片岡が勅任される。
5月29日 第6回帝国議会貴族院に「沖縄県宮古島人民に関する質問書提出」(曽我祐準 賛成 近衛篤麿他30名)。
6月1日 貴族院「沖縄県宮古島々費軽減及島政改革」採択(西里村士族川満泰奉ほか2名提出)。
6月2日 衆議院解散、貴族院停会。
8月5日 十作、宮古へ帰るため新橋を発つ。
9月1日 衆議院総選挙。
11月11日 十作、上京。
12月30日 十作、近衛篤麿公爵を訪ねる。

189(明治28)年
1月12日 第8回帝国議会貴族院「沖縄県々政改革建議」賛成多数で成立(発議者、子爵・曽我祐準、賛成者・公爵二条基弘ほか33名)。
1月16日 衆議院「沖縄県宮古島々費軽減及島政改革請願書」(沖縄県宮古島福里村平民西里蒲ほか160名提出)全会一致で成立(紹介高田早苗議員。
1月26日 貴族院 同上、賛成多数により成立。

※宮古人頭税廃止85周年記念シンポジウム資料展パンフ掲載の十一郎の日誌を元に再構成。中村十一郎の日誌は城辺町史第一巻資料編に収録(原本は新潟の中村十作記念館に収蔵されています)


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第59回 「人頭税石碑」
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