てぃーだブログ › ATALAS Blog › んなま to んきゃーん › 第52回 「城辺町役場」

2015年10月13日

第52回 「城辺町役場」

第52回 「城辺町役場」

ハイ、10月からスタートした宮古島市市制10周年記念シリーズの二回目です。
今回は三角島の右下のあたりに位置している「城辺町役場」です。銘板石は合併直前の2003年に移転新設された元城辺町役場(現・宮古島市城辺支所)の片隅にあります。
第52回 「城辺町役場」
かつては町の顔として庁舎の入口に鎮座していた場所には、当然ながら宮古島市城辺庁舎の銘板石が設置されおり、今回の主役である城辺町役場の銘板石は、そこから少し奥まったところに“安置”され、特に訪れる人もない記念碑としての余生を送っています。
冒頭、合併直前に行われた庁舎の新築移転については、当時、色々と物議をかもしたりもしましたが、総二階建ての近代的な庁舎が完成しました。
合併後、宮古島市は分庁舎方式を採用して、部署の統合が行われます。それにより庁舎に空きが生まれたことから、二階部分にコールセンターを誘致を決定(2007年)。施設内には専用の保育所を設けるなど、地域の活性化をもくろみます。コールセンターこそ誘致されましたが、現在使われているのは半分ほどで、保育所も今は閉鎖されてしまいました。
また、一階の役所エリアも70パーセント程度しか使われておらず、全体として活気に乏しくさみしい建物となってしまっています。

第52回 「城辺町役場」新庁舎の落成 盛大に祝う/城辺町
(2004年2月14日 宮古毎日新聞)

ちなみにこちらの庁舎になる前は、もう少し東寄りの福里交差点近くにあり、庁舎移転後も建物は残されていましたが、2013年に老朽化(竣工はは1961年)のため取り壊され、すでに更地となっていますが、まだ跡地利用は決まっていないようです。
尚、この庁舎の入口脇には、とある顕彰碑が建てられていますが、次のシリーズでこの碑を取り上げる予定なので、今はそっとしておきます。お楽しみに。

旧城辺町庁舎 13年度解体へ(2012年6月26日 宮古毎日新聞)
旧庁舎解体で「お別れ会」/城辺職員会(2013年10月21日 宮古毎日新聞)

【城辺町略史】
1908年4月1日 島嶼町村制により宮古郡城辺村となる。
町域は砂川間切をベースにしつつも、砂川間切の西里、下里、松原と、平良間切の長間、比嘉を交換。また、野原、新里、宮国が下地(後に上野村となる)に移管されたため、町村制によって間切域と町域の変動が最も大きく、中心地も砂川(変更で町端となる)から福里に変わった。
1947年2月1日 町に昇格し、城辺町となる。
2005年10月1日 平良市・下地町・上野村と合併、宮古島市となり城辺町は消滅。

【交流都市】
新潟県上越市 (交流都市締結 1976年4月)
云わずと知れた人頭税廃止に尽力を尽くした中村十作の生まれ故郷で、正確には旧頸城郡板倉町(上越市に2005年に編入されるも、上越市は全国で初となる地域自治区を導入したため。板倉区と形を変えて存続している)
※旧板倉町側の資料では、交流都市の締結は1985(昭和60)年となっている。

同名異音の愛媛県南宇和郡城辺(じょうへん)町ともつながりがあったと記憶していたが、どうやら勘違いだったようです(2004年に周辺町村と合併し愛媛県最南端の町、愛南町となったため城辺の名は消滅してしまった)。
完全な余談ですが、ここには「高知県宿毛市愛媛県南宇和郡愛南町篠山小中学校組合立篠山小学校・中学校」という日本一長い名前の学校があります。
第52回 「城辺町役場」第52回 「城辺町役場」
周囲をウロウロしていたら、城辺町役場の銘板石も、宮古島市城辺庁舎の銘板石も、揮毫は池田海真(敏男/蒼海書道会)と同じ方が書かれていることに気づきました。もしかして宮古島市関連はすべて書いているのでしょうか(未確認)。
また、碑のそばには1997(平成9)年に建立された、町制施行50周年の記念碑も置かれていました。城辺で石モノといったらやはり入口のシーサーでしょう。すでにお気づきの方も多いと思いますが、このシーサーにはいろいろ面白い秘密がありますので、ぜひ現地でじっくり観察してみてください。




同じカテゴリー(んなま to んきゃーん)の記事

上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。