2015年12月29日
第63回 「福里村総代西里蒲生誕地之碑」

年内最後の更新は、「人頭税にまつわるエトセトラ」シリーズの五回目です。城辺地区は人頭税廃止にかかわった人が他地域よりも多く、中村十作、城間正安らとともに島民の代表として上京した、農民のふたりも城辺の出身です。今回はそのうちのひとり、西里蒲(にしざとかま)の生誕の地の石碑を紹介したいと思います。

石碑は城辺の福里。もう少し細かく云うと、福東の大道(同名のバス停が最寄りになります)にあります。福里集落は面白いことに福東、福西、福南、福北、福中と、方角によって細かく小字が判れており、地名マニアとしてはこのfix度合にニヤニヤが止まりません。
それはともかくとして、この場合の東西南北は簡単に云うと、東西の平安名崎を結ぶ、おおむね斜め45度のラインを東西の方角軸(北西-南東)を基準(島を横切る、多くの丘脈もこのラインに平行であり、地理的な側面においても島の東西を形作る一因となっている)としており、磁北や緯度経度といった地図的な方位とは異なる、島特有の方角軸になっています。
この島式の方向軸は、島の人の地理感覚のメタ情報として浸透しているので、今でも普通に使われているため、時に注意していないと色々と痛い目にあうことがあります(観光客が島で道を聞いて迷う一因とも考えられます)。
余談ついでに書きくわえておくと、この島式の方角軸はどのような状況でも使われるため、冷蔵庫の中にしまいこんだ昼食を、電話越しに教える時に、「バターの東」と伝えたという逸話があります(冷蔵庫の中にまで東西南北を持ち込む感覚が面白いというお話です)。
また、この方角軸は太陽が昇る=東(あがり)太陽が沈む=西(いり)の方角に起因していのではないかと思われます。理由として、平良と城辺を結ぶ県道78号線は、おおむね東西平安名の方向軸に平行に通っており、特に冬至前後の季節には、朝の東(南東)向きは朝日が、夕方の西(北西)向きは夕陽が、いずれも真正面から差し込む、太陽の通り道なっており、極所的福里界隈を見ても、ほぼこの方向軸があてはまっています。
ですから、福東とはいっても、地図的には福里の交差点(この交差点は島的な東西南北に合致した十字路を形成している)から、南東の方角あります(福里側の台地を新城方面に降りない)。
さてさて、地形と方角の話はこのくらいにして、話を戻します。
とはいうものの、今日の主役である西里蒲ですが、実はあまり情報がありません。
判っているのは、1856(安政3)年に城辺福里大道(福東)に生まれたこと。若いころから体力に優れていた人物で、大道蒲(ウプどぅかま)と呼ばれていたとのこと。くらいでしかありません。
尚、西里蒲は人頭税廃止にかかわった主要人物の中ではもっとも年上だった人物ですが、人頭税廃止のわずか5年後の1908年に、52歳の若さで亡くなっています。優れた体力がある人物とは思えぬ若さで亡くなっており、ちょっと驚きです。
【生没年月日まとめ】
1856(安政3)年3月2日 西里蒲 福里村に生まれる
1860(万延元)年8月19日 城間正安 那覇・久茂地に生まれる(日付は諸説あり)
1865(慶応元)年5月5日 上原戸那 新城村に生まれる(農民、東の総代)
1866(慶応2)年12月3日 平良真牛 保良村に生まれる
1867(慶応3)年2月22日 中村十作 越後国頸城郡稲増村(現新潟県上越市板倉区)に生まれる
1867(慶応3)年8月7日 川満亀吉 嘉手苅村に生まれる(農民、西の総代)
(1964年説あり、1889年に23歳で嘉手苅村総代に選ばれる)
1893(明治26)年11月3日 請願団、東京に到着
1903(明治36)年1月26日 人頭税廃止が可決される
1908(明治41)年6月10日 西里蒲 没
1928(昭和3)年7月16日 川満亀吉 没
1939(昭和14)年11月27日 上原戸那 没
1943(昭和18)年1月22日 中村十作、京都の自宅(京都の詳細は未明)にて病没(胃癌)
1943(昭和18)年3月18日 平良真牛 没
1944(昭和19)年8月?日 城間正安 没
【関連記事~人頭税にまつわるエトセトラ】
第3回 「川満亀吉顕彰碑」
第59回 「人頭税石碑」
第60回 「人頭税廃止運動ゆかりの地 城間正安住居跡」
第61回 「人頭税廃止運動ゆかりの地 パチャガ崎」
第62回 「顕彰碑(城辺)」
【福東の石碑】
第50回 「水」
Posted by atalas at 12:00│Comments(0)
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