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2018年12月18日

第213回 「開鑿紀念碑(大嶺)」

第213回 「開鑿紀念碑(大嶺)」

毎度おなじみ、島の石碑を巡る旅「んなま to んきゃーん」でございます。相も変わらず地味に地道な井戸にまつわる石碑シリーズを続けています。最近はホントにマニアック過ぎるので、誰もついて来れない系などとも云われています。でも、そこはそれ。オトナの自由研究ですから、ずいずいずいっと続けちゃいます。
ということで、今回は上野地区は宮国の大嶺にある井戸の脇に建つ「開鑿紀念碑」です。のっけからぶっちゃけますと、井戸の正式な名称が判りません。俗称としては「東の井戸(アガズヌカー)」などと呼ばれているようで、新里の東青原との字境に近い、小丘陵の端に位置しています(最近、地名の説明が長い)。
第213回 「開鑿紀念碑(大嶺)」大字でいう宮国には中心となる宮国の他に、上野支所(ヤーバル・側嶺)に近い北の名嘉山(テマカ)、下地の嘉手苅(入江)に近い西の山根、新里に近い東の素原(ソバリ)といった集落があります。大嶺の位置はちょうど宮国と高田(新里の北部。上野小中学校付近)との間、名嘉山と素原に挟まれた周辺ので国道390号線沿いに位置してます。
大嶺の集落は、さらにオホミネ(大嶺)、イリオホミネ(西大嶺)、アガリオホミ子(東大嶺)などの里に細分化されています。東の井戸(アガズヌカー)は井戸名に方位が使われていますが、所在はなぜか大嶺にあります。と、いうのもこのオオミネに対してイリもアガリも西側に位置しているからです(方位的にはイリが北、アガリが南に位置している)。そんな不思議な位置関係もあいまって、井戸は大嶺全体から見ると東端にあるのです。

井戸の周辺にはあまり人家はなく、北東側(新里東青原方面)は一段低くなった小さな丘の片隅にあります。井戸は浅い窪地に掘られており、降り井を掘り抜き型に改修したのような雰囲気があります(正確なところは不明)。それゆえに使うもののなくなった現在は、窪地ごと緑の木々に周辺は覆われ、さらに戦後になって井戸の前にお墓が建てられたことて、そこに井戸があることなど、外界からはまったく察知することが出来ない、なんとも虐げられた環境にあります。
第213回 「開鑿紀念碑(大嶺)」
そもそもが開鑿(かいさく)記念なので、改築ではなく井戸が掘られて完成したことを記念して建てられていますので(“鑿”はノミのこと)、井戸の完成は「昭和四年五月十五日建設」と碑の側面に記されています。西暦に直すと1929年ですから、今から90年近く前のことになります。
また、発起者が9名、寄付者が45名(金額は異なる)とともに開鑿者1名の名前が碑の側面と背面に刻まれており、今の集落の戸数とは異なりり、相当数の住人が居たことが判ります。
昭和初期は島の各地、井戸が掘られた時代でもあるのですが、この界隈(宮国新里)は割と早い時期に開鑿された井戸が多いので、大嶺もその時流に乗って掘られたように感じます(井戸内を覗くと、かすかに水面が見て取れ、なかなかに深い事も判った)。

そういえば第146回「水道落成記念碑(宮国)」で、1956年に宮国の簡易水道の落成を記念して建てられた石碑に、大嶺の集落会長の名があったことを思い出しました(尚、1958年に上野村営に移管され、さらに1965年に宮古島上水道組合が発足する)。いわゆる“隣り村”なので簡易水道の恩恵を受けていたとしても不思議ではありませんが、「東の井戸」から見ればこちらの水源は遥かに南方の地にある井戸(しかも宮国の崖下)。ひとつ所にまとまっている宮国とは異なり、大嶺の集落はいくつかにばらけた、核の小さな散村であり、東の井戸の出資者の数を考えると、大嶺の全戸に給水をするのはかなり大変なことだったのではないだろうかと。それを思うと、簡易水道が敷設道された頃でも、もしかすると東の井戸は使われていたかもしれません。
第213回 「開鑿紀念碑(大嶺)」第213回 「開鑿紀念碑(大嶺)」
【左 東の井戸の内部。フラッシュに煌く小さな点が水面】 【右 井戸を囲う窪地の斜面。ガレ場のように石がゴロゴロしている】

第213回 「開鑿紀念碑(大嶺)」今回、大嶺集落に関する資料が少なく、井戸に至ってはまったく資料がないままに進めましたが、人々の記憶から忘却されそうな立地と、90年の時を経ても未だ“読める”碑が残っているうちに、紹介しておきたかったという点だけで構成をしましたが、最後にひとつ。

この井戸が位置する小丘陵一帯地形は、琉球石灰岩の露頭を中心に形成されているようで、丘陵からは南東方向の眺望が開けています。また、丘陵内側にクレバスのような地裂があり、バダや鍾乳穴が見られます(ただし、現在は車や農業系のゴミが大量に捨てられている)。丘陵東側の路頭部にはトーチカのような監視壕(銃眼のような除き窓のある小さな壕)があります。これは「宮古島市内戦争遺跡分布調査報告書(1)」(2017年)によると、この陣地には歩兵第3聯隊戦第1大隊第7中隊1小隊と第2機関銃中隊1小隊が配置されていたようです(戦中の防禦配備の資料が残っているのも凄い)。
この陣地は宮古島の南部海岸に上陸した敵上陸部隊を、島の中枢である野原岳の司令部に近づけさせないための前衛陣地だったと考えられます。後方に位置する“宮古富士”と呼ばれた上野公民館の山は、第2大隊の本部が配置されており、厚い防禦線を構築していた様子が判ります。
このトーチカ監視壕以外にも、周辺には一人壕(蛸壺)のような窪地が散見される他、クレバスや鍾乳穴は兵隊が隠れるのにも都合がよい地形です。これに加えてすぐそばに東の井戸があるので兵隊が生息するには、もってこいの場所だったのではないかと考えられるので、確実にここには部隊の痕跡がもっとあるに違いないと夢想するのでした。
第213回 「開鑿紀念碑(大嶺)」第213回 「開鑿紀念碑(大嶺)」第213回 「開鑿紀念碑(大嶺)」

【周辺石碑】
第158回 「井戸鑿堀記念碑(ハイテマカ)」
第176回 「大昭井戸開掘紀念碑」
第210回 「長立井戸開掘紀念碑」




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