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2018年03月06日

第175回 「無名諸霊之塔」

第175回 「無名諸霊之塔」

三週続けて慰霊碑をお届けしたからと云う訳ではありませんが、勢いあまって今週も戦争関連です。ここまで下地町上野村の公共設置の慰霊碑。そして先週は珍しい自治会レベルで建てられた、友利の慰霊碑を取り上げて来ました。今回はもっと小さなレベルとなる慰霊碑です。
第175回 「無名諸霊之塔」
こちらが今週ご紹介する、「無名諸霊之塔」という碑銘の小さなコンクリート製の石碑です(コンクリートなのに石碑という妙はありますが)。
結果から云ってしまうと、お手上げな石碑だったりします。というのも、「無名」にして「諸霊」ですからね。祀られているのが誰なのか、そもそもこれが本当に戦跡関係なのかも正直に云ってしまうと不明です。もちろん、いつ建立されたのかとか、誰が建立したとかなど判るはずもなく、「謎の石碑-未解明ファイル-」の仲間入りをさせたいところです(※未解明ファイルシリーズはお手上げの謎の石碑を、皆さんの叡智で解決しようという企みで記事化しましたが、これまでひとつとして解明されていません)。

そんな謎にまみれた石碑の存在を知る手立てとなったのは、この石碑のお隣りにある洞穴の存在でした。
場所は城辺は下里添の下北こと上区。佐事川とかウズラ嶺に近いあたりで、温泉病院の南側の畑の中にあります。またしてもなにやら大量に地名がでてきたので、ちょっと語っておきます。いや、語らせて下さい。
まず温泉病院ですが、住所は城辺にはなく、平良大字東仲宗根添字更竹で、今回はあくまで目印として書きましたが、長南の「清泉(長南西更竹)」の回で、更竹のカオス感についてはたっぷり語っているので、興味のある方はそちらをご覧ください。
続いて、佐事川にウズラ嶺。こちらは下里添の中の小字になりますす。どちらも路線バスのバス停があるので、一部のマニアの方にはとても判りやすい地名だと思います。位置的には佐事川が城辺線沿いに近く、ウズラ嶺は県道の城辺下地線(246号)が集落内を走っています(今冬でいうと、、“ゆくる”のサトウキビ迷路のあるあたり)

【2018年9月の颱風タリム18號で神木が軒並み折れて丸パギになってしまった下里添神社】
第175回 「無名諸霊之塔」そして問題の「下里添の下北こと上区」です。
下北は地域名(行政集落)なので厳密には地名としては存在していません。下里添の北半分という意味から合成された呼び名なので、前出の佐事川やウズラ嶺、公民館があり地域の中心ともいえる更竹、それから長間や西里添との境となる丘脈部分を占める西更竹あたりのことを呼ぶようですが、戦前は公民館名にもなっている上区と呼んでいたようですが、この呼び方も日常的に使われているようです。
尚、「上区の獅子舞」が行われる上区構造改善センター内にある、神社化された御嶽は下里添神社なので、一筋縄ではいきません。

ちなみに、下里添の南半分となる下南、下区は、県道砂川線(201号)沿いに位置する、西花切、東花切、冨竹あたりの集落を示すようですが、最近はそのまま中心集落である「花切」とも呼ばれているようです。
下里添はこの他、砂川小学校の近くで「最寄」とも呼ばれている、下南に含まれそうな佐和田屋(名前通り、伊良部島からの移住の集落らしい)や、どちらかと云えば下北に近いような気もする「与那原」(与那原、上与那原)があります。下北と下南のどちらに属するのか、はたまた独立した状態なのか、さらには南隣りの字である砂川も近く、そちらとの結びつきが強い感じがしなくもないなど、考察が楽しいエリアのひとつではありますが、時間の都合もあってすべてを把握するまでには至っていません。どなたか詳しい方、ぜひともご教示ください(そもそも下里添そのものが、下里村の添村だったので、複雑な入れ子なのである)。

【左:ムムクーリャの洞口。浅い縦穴になっています】【右:洞口から洞内を望む。土砂のせいで深度はそれほどないように見える】
第175回 「無名諸霊之塔」第175回 「無名諸霊之塔」
嗚呼。また、ついつい長々とよるべない話を綴ってしまいました。趣味をこじらせて申し訳ありません。気を取り直して、石碑の隣りにある洞穴の話に戻しましよう。
洞穴の名前は「ムムクーリヤ」という自然壕で、戦時中は住民の避難壕として使われていたそうです。圃場整備された畑の中にある適用外地で、大きな畝のような細長い土盛状の中に、現在も洞口が残されています。やや土砂の流入が多いものの、奥に広めの空間があるようです。

こうしたことから想像を膨らませてゆくと、戦時中はこの附近には宮古島最大の日本軍の軍事拠点となる野原岳が西にあり、城辺線を挟んだ向かいには野戦重火器砲の陣地壕が、ウズラ嶺にも戦車壕などの拠点があり、野原集落ほどではないにしろ、連合軍からしたら重点攻撃地域だったと考えられます。
実際、島の南洋上に陣取る空母群から飛び立った攻撃機は、島の南方から進入して、野原の陸軍飛行場や野原岳司令部を攻撃して、爆弾が余っていたりすると。長南のキャーギあたりまで爆撃して南の海上に消えて行くのが、攻撃ルートだったようです。
第175回 「無名諸霊之塔」戦争の時、兵士か民間人かは判りませんが、このムムクーリャの洞穴の周辺で名も知れず亡くなっ人々人がいて、戦後、この界隈の畑を耕していて出土した遺骨を拾い集めて合祀している慰霊碑なのではないかというストーリーが、なんとなく脳内にメイキングされたのでした。
なぜかって、それはこの無名諸霊之塔のすぐ脇に、割れた壺が散乱していたからでした。
だからなんなんだといわれても、あくまでも妄想が生んだトゥーカッティーなストリーなので、そこに理屈はありません。すみません。ごめんなさい。以上、そんなオチのない未解明ファイル(通算11回目/短発)でした。

【関連石碑】
第78回  「陣没せる軍役動物を吊ふ碑」(謎の石碑-未解明ファイル-Part1その2)
第106回 「スマウサラ之塔」(謎の石碑-未解明ファイル-Part2その1)




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