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2018年02月27日

第174回 「戦歿者慰霊之碑(友利)」

第174回 「戦歿者慰霊之碑(友利)」

2週続けて、上野下地と町村で建立した慰霊碑を取り上げていたら、集落建立の慰霊碑があることが発覚!。早速、暇を見つけて現地を見てきました。建立されている場所は友利の集落の外れ、見晴らしのいい高台にありました。
第174回 「戦歿者慰霊之碑(友利)」
これまでなんやかんやで、かなりの数の慰霊碑を取り上げて来ましたが、忠魂碑を含む慰霊碑はおおむね市町村単位、もしくは所属部隊の単位で建立されていました(一部、個人的な墓碑に近いものもありましたが)。なので、今回の集落単位という慰霊碑は、とても珍しい部類ではないかと考えられます。

今回ʃ紹介する「戦歿者慰霊之碑」は、1991(平成3)年8月に、慰霊之碑建設委員会と在沖郷友会によってとても立派な建立されています。ちょっと気になったので台座脇の高額寄付者の寄付額を足してみると、総額が130万円を超えていました。恐らく1万円以下の少額寄付もあると思われるで、実際はもう少しかかっているのではないでしょうか。

石碑の台座部分に据えられている戦没者名を刻んだ芳名板には、「世界平和を祈り、この碑を捧ぐ」と記されており、戦没者名は出征した兵士(戦死・戦病死)だけでなく、空襲死亡者、台湾疎開地死亡者、遭難死亡者、被爆死亡者など多岐にわたって34名もの名前が記されています(軍属は軍に雇用された民間人)。
中でも気になるのは被爆死亡者として、おひとりの名前が記されていること。広島か長崎に居たと推察できますが、宮古で被爆死亡者が刻まれた慰霊碑を見たのは初めてのような気がします。

また、この碑に記されている空襲死亡者や台湾疎開地死亡者に関しては、ほぼ民間人であると推察できます。宮古人の台湾疎開についての資料を読み切っていないので、総疎開者数がどのくらいの数なのかはっきりしませんが、相当数あったことを考えると、わずかに4名だけとは思えないのですが、疎開する単位(集落や縁者、学校など)が様々だったようなので、これもまた一概に語ることが出来ません。
戦後は、日本、沖縄、台湾と各政府によって分断されてしまったことから、疎開者の引き揚げが事業化されず、沖縄では密航による台湾からの引き揚げが行われていました(中には栄丸遭難事件なども発生している)。このあたりの事象は、表層を追いかけるだけでもかなり興味深いです。
第174回 「戦歿者慰霊之碑(友利)」第174回 「戦歿者慰霊之碑(友利)」
この慰霊碑の隣りには、入口に巨大な蘇鉄が茂る、タカパナムトゥ(タカパナ御嶽)があります。なんでも高い場所にあるからタカパナと呼ばれるようになったと、資料にはありましたがトラヌパ(寅の方角≒民俗方位で東)の神を祀り、里を守護する御嶽なのだそうです。御嶽内のガジュマルの古木の前に拝所があり、祭壇にはちょっと不思議な石造りをした円形の香炉(?)が目をひきました。
最後は余談になりますが、この場所が高い証拠として、すぐそばには51.8メートルの4等三角点が、なぜか薬缶の下にありました。
第174回 「戦歿者慰霊之碑(友利)」第174回 「戦歿者慰霊之碑(友利)」




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