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2017年07月18日

第144回 「マムヤの墓」

第144回 「マムヤの墓」

今回はちょっとお手軽な感じで。
いえ、別にネタ切れという訳ではなく、ひと言でいうならば問題が解決しておらず、先に進めていないだけのことです(裏取り調査が滞っていているだけ)。
ということで、今回はみんな知ってる平安名(ヘンナ)のマムヤの墓です。
第144回 「マムヤの墓」
第144回 「マムヤの墓」場所は語るまでもなく、東平安名崎の灯台へと続く遊歩道の途中。大きな岩をくりぬいて作られた祠の中に建立されています。
今更、マムヤについて語るべくもないとは思いますが、まあ、一応、おさらいをしておくと、マムヤは保良村に暮らす絶世の美女で、その美しさゆえに巻き起こる悲恋の物語です。詳しい内容については下記のリンクをご参照下さい。

"絶世の美女"の悲しい恋物語「マムヤ伝説」(時間のない人向け)
平安名(へんな)のマムヤ ※マウスに寄って来る猫がちょっとウザいです。
宮古島キッズネット版 マムヤ伝説(下から二番目の掲載なのでスクロールさせると早いです)
マムヤの伝説(パクリ掲載禁止の宮古島キッズネット版をほぼほぼ無断転載しているサイト)

と。
簡単に終わらせてしまいたいところですが、そこは「ん to ん」。
余滴ではありますが、ちょっとばかり投げておきます。

まず、気になるのが上記のリンクでは、いずれも保良村のマムヤであると出自が書かれています。しかし、現在の保良集落は東平安名崎から直線距離で西北西に4.5キロほど離れた場所にあり、お話のイメージとはやや趣きが異なっているように感じます。
宮古島キッズネット版では、13~14世紀頃の話と定義していますが、保良村という名前が登場するのは廃藩置県当時の1879(明治12)年で、砂川(うるか)間切11村のひとつとして、下里、西里、松原、宮国、新里、砂川、友利、新城、福里、野原とともに保良が記されています。時代的には19世紀ですから、時期がマッチしません。

古い記録と云えば、歴史に初めて登場した宮古の人とされる「婆羅公管下密牙古人(ブラコウカンカミヤコジン)です。1371年に温州(中国)に漂着した人物として『温州府誌』(1605年)に登場しており、この婆羅公は密牙古(宮古の意)の保良を拠点とした首長らしいと云われていますが、研究によると倭寇のような存在だったとも云われています。
実際、東平安名崎周辺には、
保良元島遺跡(現在のオーシャンリンクの南側あたり)
崎山村遺跡(東平安名崎の付け根あたり。マムヤの話には“崎山の坊”という童名を持った野城按司が登場するものがある)
平安名村跡(崎山村遺跡と現在の保良集落の中間あたりで現在は、圃場整備され面影はまったくない)
と、三か所の遺跡がありますが、資料によるといずれも12世紀~18世紀頃と幅の広い年代の遺跡で、いまひとつ確からしさには足りていません(デジタルアーカイブ)。

保良元島遺跡内にある保良元島御嶽(ゴルフ場内にある)は、西の神様『新屋邑津丸津丸(ミズヤバツマル)・ウンツヌス』、東の神様『司神邑津丸(ツカサカムバツマル)』(現地の表記は「邑」ではなく、目を横にした“あみがしら”の下に巴と書く)という神が祀られており、両神は「富ヌ主」として運命をつかさどる神であるとされています。どことなくマムヤを暗示させるような雰囲気があるように感じます。
第144回 「マムヤの墓」第144回 「マムヤの墓」第144回 「マムヤの墓」
【左】西の神様 「新屋邑津丸津丸」 【中】東の神様 「司神邑津丸」 【右】マムヤ井だったと思われる場所

1646年の「正保の国絵図」(市史「みやこの歴史」の表紙になっている絵図)には、この保良元島あたりらしき場所に、「おろか間切百名村」という記述があり、1647年の「宮古・八重山両島絵図帳」にも、「ひゃくな村」という村が記録されています。
様々な時代に、色々な名前の村が登場しており、いったいどれが正解なのか、まったくもってこれでは見当がつきません。

ひとつマムヤの根拠として示せるものがあります。
市の指定史跡には「マムヤの屋敷跡・機織り場・墓」と、墓以外の場所も屋敷跡と機織り場(保良漁港)が指定されています。屋敷跡は一周道路とオーシャンリンクスの敷地にはさまれた畑の中にある、なんの変哲もない小さな丘になります(案内板などはなし)。この屋敷跡は周辺の地形変化によって、現在は山のようになって残っていますが、屋敷跡としての痕跡、遺構はあまりはっきりしていません。しかし、道を挟んだ向かいに残る小山の上には古墓らしき跡が今も確認できます。また、史跡に指定はされていませんが、ゴルフ場内にはマムヤの井と呼ばれていた井戸があったそうです(現在は埋められてしまったらしい…一説によるとマムヤが産湯を使った井戸だといわれている)。
想像を大にして眺めてみると、この周辺に集落が形成されていたことが見えてきます。
第144回 「マムヤの墓」
そしてもうひとつ。
1927(昭和2)年、初めて宮古の歴史をまとめた慶世村恒任の「宮古史伝」にあるマムヤの話は、これまでとは大きくことなるストーリーが書かれています。
「野城按司とマムヤ女」
西銘地方の東部(今の福里以東)を領していた人に野城按司と云う人があった。平安名村(ひゃうな村)の傾国の美女マムヤと淫に溺れて妻子を忘れ、治を懈(おこた)り威令全く行われなくなって遂に滅んだ。付近諸村も離散したが、皇紀二三七六年、中御門天皇享保元年(編注1716年)には今の保良村を、皇紀二五三四年、明治七年(編注1874年)には今の福里村を建てた。福里北方に野城川の遺跡がある。マムヤ女は後には追い出されて平安名崎の洞穴に入って世を忍び機織(はたおり)に余生を送っていたという。今なお洞穴内には遺跡がある。マムヤのアヤゴは当時の心情を物語っている。
傾国の美女マムヤは失意の余生で機を織るという、まったく違う話になっています。最初に紹介した「保良村のマムヤ」の物語は、どことなく闇落ちするブラックな竹取物語の骨子が組み込まれて創作されたような気がしてなりません。
話を「宮古史伝」のマムヤに戻します。こちらのマムヤは平安名村とありますが、読みは「へんな」ではなく、「ひゃうな」(宮古の島言葉で東平安名崎を「あがりぴゃうなざき」と呼ぶと紹介されていることがある)と読んでいます。
1646年の「正保の国絵図」では百名村(ひゃくなむら)ですから、読みの音がとても近いことを考えると、マムヤの村は百名村であり、平安名村であり、保良元島であると位置づけられるのではないでしょうか。
以上、石碑そのものからは大きく逸脱してしまいましたが、妄想から傾国の美女の里を追いかけてみました。

ところで、マムヤの墓にある肖像画。誰も見たことがないマムヤを、どうやって描いたのでしょうか。新たな謎が生まれてしまいました。

【関連資料】
「宮古史伝」に収録されている「マムヤの綾語」(原歌/逐語訳)
第144回 「マムヤの墓」第144回 「マムヤの墓」

【関連石碑】
第33回 「灯台の碑」
第34回 「平和観音像の碑」

【オマケ】
たまたま拾ったマムヤの話をオーバーラップさせた現代の短編小説
『猫島』 作・龍淵 灯
(なぜか多良間が登場し、水納島と思しき島なのに商店街と断崖絶壁が存在するパラレル世界)




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