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2017年06月13日

第139回 「忠魂碑(平良)」

第139回 「忠魂碑(平良)」

6月は23日に慰霊の日もあることから、戦争に関する石碑を紹介関連しています。先週の城辺の忠魂碑に続いて、今週は平良の忠魂碑です。
ご覧の通り激しくグリーンモンスターが茂っており、残念ながら全貌をお見せできない状況で、城辺の忠魂碑と比べるとずいぶんぞんざいな扱いとなっているようです。
第139回 「忠魂碑(平良)」
あくまで個人的な興味に過ぎないのですが、ついつい平良と城辺の忠魂碑を比べたくなってしまいます。なぜならばどちらの石碑もその形状は縦にとても細長い四角錐台(側面が台形の四角柱)という、島ではあまり例のないタイプで非常に酷似しいます。しかも、石碑に記されている「忠魂碑」の揮毫は山縣有朋なのです。建立年月日こそ平良が1924(大正13)年1月、城辺が1927年(昭和2)年8月と、少し差があるものの時代感的にはほぼ同一といえます。これほどまでに似ていると気にならざるを得ません。
そして面白いのは碑が建立された時、すでに有朋はこの世にいません。1922(大正11)年に肺炎でなくなっているのです。石碑はすでに発注済だったのでしょうか(当時、こうした忠魂碑を作るのがブームだったようで、順番を待たされたとか?)。それとも人気有名人(有朋は国葬まで行われた)人物の書で、シャレオツだからと使い廻されていたのでしょうか。ま、真相は定かではありませんが、某K氏の揮毫の偽揮毫疑惑という噂話もあるので、時系列すらもここでは迷宮入りさせて、真実を知らないままでいた方が倖せかもしれませんけど。

平良と城辺の違いを語っておくと、城辺の忠魂碑は台座上部に碑を囲むように花ブロックの流用品っぽいが設えられていますが、平良は忠魂碑は台座ごと野放図に生えた茂みに浸食されていて、囲いの一部は崩壊したままになっています(そもそも撮影しているこの場所も、下生えが茂るただの緩斜面だったりします)。

この差はいったいなんなのだろうと愚考した結果、建立者の違いなのではないかという推論に至りました。資料によると城辺の忠魂碑は城辺町在郷軍人会。つまるところ遺族会的な組織です。一方、平良の忠魂碑は遺族会ではなく、当時の平良町長・下地寛路が建立者となっているのです。ネタバレ:来週取り上げる、伊良部の忠魂碑の建立も伊良部地区遺族会だったりするのだ。
平良に遺族会がない訳ではなく、実のところこの忠魂碑の隣りに、立派な屋根つきの慰霊碑があるのです。つまるところ、忠魂碑の方とは管理者が異なるということのようです(忠魂碑と慰霊碑の違いは先週触れたのでそちらをご覧ください)。もう少し突っ込んで云ってしまうならば、こちらの忠魂碑は当時の平良町(町長)が建てたにもかかわらず、管理者は不在不明(平良市の後進である宮古島市でもない)ということになっているようです(慰霊碑一覧 宮古八重山)。
第139回 「忠魂碑(平良)」第139回 「忠魂碑(平良)」
すっかり碑の現状現況に終始してしまい、建立されている場所を説明していませんでした。
こちらの忠魂碑があるのは市営馬場団地の裏手、カママ嶺へと続く丘脈(戦後、軍政府の拠点となった測候所の裏というのもポイントかもしれません)の上に位置しています。馬場団地5号棟の裏。入口が草に埋もれた階段があります(2012年当時)。門柱には「平良市慰霊之塔」と書かれています。
緩いスロープから続く階段を登るとガジュマルが好き勝手に茂った小さな広場に出ます。そこから数段の階段を登るとコンクリート屋根に覆われた「平良市慰霊之塔」があり、戦没者のご芳名(608名)を刻んた石板があります。碑の手前は献花台でしょうか、石造りのテーブルが張り出しています。
こちらの碑は1964(昭和39)年4月24日に遺族会によって建立され、1993(平成5)年6月に改修されています。いずれの時にも相談役として当時の市長の名前が挙げられています(1964年に真栄城徳松、1993年に下地米一)。つまり、慰霊碑に行政も関与しているのです(恐らく団地が市営なので建立している土地を提供している?)。
けれど、忠魂碑は当時の平良町長であった下地寛路が建立者となっています。この立派な慰霊碑のすぐ北側にある忠魂碑は、アンタッチャブル的な塩対応が取られています。確かに忠魂碑と慰霊碑の違いはあるのでしょうが、この隔たり具合は城辺との差を大きく感じます(空の開けた丘の上か、周囲を森に囲まれた場所なのか、ロケーションの差も大きいとは思いますが)。
第139回 「忠魂碑(平良)」第139回 「忠魂碑(平良)」
この馬場団地。馬場という名前でも判る通り、かつてここは士族の馬場(琉球競馬)だったそうです。馬場というと鏡原の馬場(人頭税廃止100周年記念碑が建てられている)を思い浮かべる方も多いと思いますが、こちらは農民たちが廃止を祈念した祝宴のために使った(それまで禁止されていた)馬場で、本来の馬場は「下里の馬場」といわれる馬場団地のことだったそうです。
その後、馬場は運動場として整備され、博愛記念碑建立60周年祭や、郡競技会などに使われていました。現在は市営の団地として利用されています。

【関連資料】
第66回 「人頭税廃止100周年記念碑」
~鏡原の馬場についての記述があります。
第94回 「沖縄県立宮古高等女学校・宮古女子高等学校跡地之碑」
~競技場として使用されていた頃の画像があります。
宮古島における公営集合住宅の中間領域の果たす役割に関する研究(pdf)
~馬場団地を設計した伊志嶺敏子さんの報告書
宮古島最古の映像に関する一考察(pdf)
~60年祭の動画に出て来る競技場時代の画像があります。
慰霊塔(碑)一覧表(宮古・八重山)
沖縄戦の記憶・分館 ※建立日に記述間違いあり
慰霊塔(碑)一覧(pdf)
~沖縄県庁 子ども生活福祉部 平和援護・男女参画課 ※なぜかこちらには平良の忠魂碑は記載すらされていません。





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