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2016年11月01日

第107回 「故憲兵軍曹之墓」

第107回 「故憲兵軍曹之墓」

えー、「謎の石碑-未解明ファイル-」のPart2の2回目、通算6回目です。
といっても、今回は石碑ではなく、お墓です(形としては)。なので、タイトルは墓碑の前半のみとししました(一応、配慮のつもり)。
もっとも、これまでお墓を石碑(「故海軍二等兵の墓碑(加治道)」「旧日本軍慰霊碑」)として取り上げたことはあるのですが、こちらは出逢いが衝撃的だったので思わず勢いだけで取り上げてみました。

第107回 「故憲兵軍曹之墓」場所は五ヶ里道の中ほど。仲地から国仲へと向かう道すがらで、人家もまばらになりかけたロードサイド。
ある日のこと。その場所を通ったら雑木林が丸刈りにされ、表土がむき出しになった荒地のど真ん中に、これが建っていたのです。

マニアとしては確認せずにはいられず、ついつい車を止めて間知(ケンチ)を登って現場を目指します。そしてそれがお墓であることを知り、その場で慟哭するのでした。
人知れず雑木林の奥に、このようなものが隠されていたことに驚きを隠せません。沖縄の県民性からして、お墓は大切にするものですが、埋もれていたことを思うと、もうこの墓に参る親族はこの島にはいないのではないかと心配になりましたが、雑木林の生えていたころのストビュー(右下)を見ると、そこまで茂ってはいなかったようで、ちょっと感情の勇み足がでてしまいました。第107回 「故憲兵軍曹之墓」

沖縄式の箱型をした破風墓ではなく、モノリスタイプの大和風の墓碑であることが気になります。
それと、墓碑の表には「故憲兵軍曹 島尻昌誠之墓」と階級とともに刻まれ、裏面には「昭和18年五月二十四日戰病死」とだけ記されています。
この組み合わせはこれまでの墓のパターンからして、この手の墓に遺骨は眠っていないというのがセオリーだと思われます。
第107回 「故憲兵軍曹之墓」
まず、検証。
ひとつ目は、伊良部島に展開した帝国陸軍について。伊良部には独立混成第59旅団(碧部隊)という部隊がやって来ましたが、部隊が島にやって来たのは1944(昭和19)年9月になってからですので、この部隊に在籍していたり、現地で召集された人物ではないということが、これてはっきりしました。
しかも、死因は戦病死であることが書かれています。病傷死は戦闘行為により死傷する戦死亡とは区別され、戦闘行為中に病気で死亡することですが、戦争に関連して死亡すること全般を指す戦没には含まれます。
戦病死の原因が、マラリアなのか、凍傷なのか、破傷風なのか、そこまでは書かれていませんので読み解くことは出来ませんが、少なくとも島外のどこか、もしかすると大陸や南洋で亡くなられたのではないかと思われます。そして何らかの理由で遺骨なき帰島をされたのだと考えられます。

第107回 「故憲兵軍曹之墓」墓碑の記されてる、「憲兵軍曹」というのも気になります。
憲兵は調べてみる陸軍管轄の軍事警察組織で、独自の系統で運用が行われていたようです。一般の兵に比べて戦果をあげられるような任務ではないことから、功績を挙げて昇進するというのが憲兵は難しく、軍曹や曹長、准士官にまで昇進できるのはごく一部の者だけということですから、彼はエリートであったことは間違いなさそうです。
1942(昭和17)年の例なりますが、憲兵上等兵候補者を全国から学歴不問で募集したところ、一般兵の大部分が小学校卒だあった時代に、憲兵合格者に占める小学校卒の割合はわずかに一割程度しかいなかったそうです。

第107回 「故憲兵軍曹之墓」もう少しなにか判らないかと、手近な史料にあたりましたが、平良市と市町村会から出ている戦没者名簿には、ページをめくる前の予想通り、なにも得られるものはありませんでした。
手がかりがあまりない中、かろうじて県紙(2紙とも)が1995(平成7)年1月16日号の別刷に掲載した、沖縄全戦没者名簿の中に、お名前を見つけることが出来ました(縮刷版より)。
結局、限られた時間で探し出せたのはこれだけでした。

ただの勢いだけでは、物語にまでは届かないということですね。詳細についてはまったくと言っていいほど判りませんでした。
てすから、謝罪を兼ねて、この墓碑を見つけた時に気付いた穴も紹介しておきます。
第107回 「故憲兵軍曹之墓」第107回 「故憲兵軍曹之墓」第107回 「故憲兵軍曹之墓」
墓の北側にクレパスのように裂け目のドリーネがあり、4~5メートルほどの細長い縦穴があります。壕ではなさそうですが、樹木も茂っているので避難先として逃げ込むこともできたような雰囲気があります。どうやらここは影墓として使われていたような感じがします(だが、全体的に湿っぽい感じはない)。
第107回 「故憲兵軍曹之墓」周辺の地形を地図でよくよく見てみると、五ヶ里道を隔てたすぐそこまで、かつて入江の海が奥まで入り込んでいたようです。現在は埋め立てられて畑となっています。
伊良部島と下地島を隔てる入江の海は、沈水カルスト谷と云い巨大なカルスト渓谷となっているので、竪穴部分も単なるドリーネではなく、入江の海(渓谷)へと続く谷のひとつのようです。
自然を御する現代の叡智によって、便利に開発改良された現況の中から、かつての地形を見出して海の痕跡を想像する楽しさが、この入江の海の周辺にはあります。
以上、言い訳を織り込んで、「謎の石碑-未解明ファイル-」の第六回を終わりにしておきます。




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