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2016年04月26日

第80回 「旧日本軍慰霊碑」

第80回 「旧日本軍慰霊碑」
4月期のシリーズとして展開してきた「謎の石碑-未解明ファイル-」も、今回で一応の最終回となります。皆様の叡智をもってしても、なかなか解明することができない石碑たちばかりで、宮古島の謎解きは本当に奥が深いです。
さて、シリーズ最終回は旧軍関係の慰霊碑関係を少しまとめて紹介してみたいと思います。それもひと癖もふた癖もあるモノを。

第80回 「旧日本軍慰霊碑」まずはこちらから・・・。
碑文は「故 林・樫野 両君戦死の處」と書かれた大和式の墓碑を模した石碑です。墓碑ではない理由は、碑文に「~の處(ところ)」とあることから推察しました。石碑の脇には「山砲二八連隊第九中隊建立 昭和二十年五月十四日」と記されています(“連隊”は作者が加筆)。
この石碑が建立されている場所は、野原岳の南方、大嶽城跡公園の野趣に富んだ遊歩道を登った尾根にひっそりとあります(この碑を境に道が下るので、野原岳に続く尾根線上に建てられています。尚、目印はコンクリート作りの古い水道施設の脇の藪の中)。
当時、野原岳は陸軍の第28師団の司令部があった場所で、陸軍の中心的な位置でした。実際、戦跡を調べてみても、この司令部を護るために周辺に様々な部隊が配置されていました(更竹の野戦重火砲秘匿壕もそのひとつ)。この山砲二八連隊(第九中隊は第三大隊隷下)も野原岳の尾根伝いに、花切付近(第二大隊が主)まで部隊が展開していました(一部の部隊は、下地や伊良部方面へも派遣されている)。
連隊、大隊、中隊と部隊編成の名称がやや複雑ですが、山砲二八連隊としての動きはそれなりに解明されています。しかし、個人となると“長”がつかない一兵卒については、ほとんど判らないのが実情。かろうじて、宮古市町村会が平成7年5月に発行した「太平戦争における宮古島戦没者名簿」におふたりの名前を見つけることが出来ました。

 林 司郎 昭和20年5月14日戦死 野原岳(長野県出身)
 樫野耕三 昭和20年5月14日戦死 野原岳(大阪府出身)
【山砲28連隊第4中隊英霊碑】
第80回 「旧日本軍慰霊碑」地上戦がなかった宮古島では直接、戦死と書かれることが少なく(病傷死が多い)、このふたりがここで戦死した正確な原因は判りませんが。全体的な戦況を見ると昭和20年5月6月は特に空襲が多かったようで、軍司令部のある野原岳は格好の標的として、攻撃されていたに違いありません(大嶽城跡公園の展望台下には南を向いたトーチカがあり、南の開けた場所には陸軍中飛行場や戦闘指揮所があった)。ただ、この尾根筋に山砲を設置していたとはちょっと考えにくいので、対空監視の歩哨にでも出ていて、機銃掃射が命中したのか、爆撃に巻き込まれたのではないでしょうか(あくまでも想像です)。この界隈の遊歩道を歩いてみるとよく判るのですが、山腹にはいくつもの壕が掘られており、間違いなくたくさんの第80回 「旧日本軍慰霊碑」兵士がここにいたことが想像できます。
尚、山砲28連隊の慰霊碑がいくつか島内に建立されています。
 山砲兵第28聯隊英霊之碑(平良字東仲宗根二重越)
 山砲兵第28聯隊第4中隊戦没者英霊碑(城辺字砂川花切)
 山砲兵第28聯隊第5中隊戦没者英霊碑(平良字東仲宗根添細竹)
【山砲28連隊第5中隊英霊碑】

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第80回 「旧日本軍慰霊碑」続きましては、なんとも奇異な石碑です。
場所はアトールエメラルドの向かい、南小の麓あたりを源にした下里川(下里雨水幹線)の脇にある史跡「西ツガ墓」(石を積み上げるのではなく、岩盤を掘り下げて空堀やアーチを造形している)のそばにある石碑。なんとその碑は誰の仕業か、見事に叩き折られ、砕かれているのです。
打ち捨てられた破片をどうにかつなぎ合わせて碑文を読み取ってみると、「故陸軍友利惠吉二等兵」と読めるようです。
官位のある軍人の慰霊碑は割とよくありますが、二等兵を弔う碑はなかなかありません(故海軍二等兵の墓碑の例もある)。それを考えると異郷の地で亡くなり、遺骨さえない兵士の墓ではないかとついつい妄想してしまいす。

第80回 「旧日本軍慰霊碑」第80回 「旧日本軍慰霊碑」
さらにもうひとつ。下地にも破壊された忠魂碑があります。
こちらはつぬじ御嶽(下地神社)の境内にある忠魂碑で、ポッキリ折られて今も放置されたままとなっています。この碑には「忠魂碑 陸軍大将鈴木壮六」と刻まれていおり、資料によると昭和7年に島内外の寄付で社殿が建立された時、碑も建てられたとありました(3月10日建立)。当時は下地小の児童も動員して、盛大な完成祝賀が催されたようです。その後、経年による老朽化のため、1978(昭和53)年に現在の神社様式に改築されたようです。
しかし、忠魂碑に刻まれた鈴木壮六大将は新潟県三条市の出身で、調べた限りではとりたてて宮古島とは縁もゆかりもないようです。しかも、1930(昭和5)年に停年で退役しており、忠魂の対象(没年は1940/昭和15年2月20日なので、建立の際は存命している)とはいいがたいく、戦前の富国歩兵が加速してゆく勃興期(久松五勇士の「敵艦見ユ」やロベルトソン号の独逸皇帝博愛記念碑60周年祭など)に、国威発揚のために奉(たてまつ)られた臭いがぷんぷんします。ま、実際のところ、破壊した人物も含めすべては藪の中です。

軍関係の石碑はこれまでもいくつか取り上げてきましたが、未だ半分にも満たないほど多く建立されており、そればかりやっていると方向性の違うBlogになりそうなので、そこは上手に折り合いをつけて進めてゆきたいと思います。
しかし、今回紹介した石碑のように、池間島の奉安殿しかり、どこの誰とは判らぬ人物によって破壊されたものも多いように見受けられます。そこはどことなく、激情にかられて破壊活動におよんだ感も拭えず、時に情熱を越えて燃え上がる島の気質ともリンクしているような気がします。

【故 林・樫野 両君戦死の處】


【故陸軍友利惠吉二等兵】


【「忠魂碑 陸軍大将鈴木壮六】



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この記事へのコメント
慰霊碑の情報ありがとうございます。亡くなった父が所属していた山砲兵第28聯隊第4中隊の慰霊碑再建完了という会報を含む手紙が、父が亡くなった後、母に送られてきていたようで、母が亡くなってから見つけました。

一度、宮古島に赴き、お参りしないといけないと思っていましたが、場所までグーグルマップ上にお示しいただき、大変助かります。

父は宮古島で、栄養失調、マラリア、ジフテリア等の様々な現代の法定伝染病にかかったようで、終戦前に東京に送られて、命拾いしました。ただ、マラリアの後遺症で、その後、吃音になりました。野戦病院と言っても何もなかったようで、洞窟の上から垂れてくる水が唯一のものだったと、姉に語っていたようでした。

情報、ありがとうございました。早く、お参りできればと思っています。
Posted by aki tan at 2020年03月30日 00:06
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