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2016年06月07日

第86回 「沖縄珊瑚漁場開発根拠之地」

第86回 「沖縄珊瑚漁場開発根拠之地」

今回ご紹介する石碑は池間島出身の水産の雄・森田眞弘が築き上げた、沖縄の宝石珊瑚事業の記念碑です。こちらの石碑は池間島の漁港入口にある公園、以前も取り上げた「池間行進曲」の隣りにひっそりと建立されています。
第86回 「沖縄珊瑚漁場開発根拠之地」
石碑の形がちょっと荒っぽい宮古島の島の形をしています(池間島出身の人の話なのに)。碑の裏面に碑文がありました。
碑文

森田真弘翁の珊瑚漁船この地を根拠に昭和三十四年遂に漁場を開発し、以って沖縄珊瑚事業の今日の基を為す。
昭和五十四年吉日      
漁場開発二十周年に当り建立す
建立者 上里登       

と記されていました(原文のまま)。

眞弘は1912(明治45)年6月15日に、池間島(池間190番地)に生まれています。池間尋常小学校(4年制)を卒業後(当時は池間島に高等科はなかったので、平良尋常高等小学校に通ったのだろうか?)、県立水産学校(現在の県立県立沖縄水産高校。糸満市)へ進学し、1929(昭和4)年に卒業します。
その後、中央大学へと進み、1934(昭和9)年に中央大学予科を卒業(法学部は第一部予科で履修年数は3年制)。1937(昭和12)年に中央大学法学部(当時の学部の履修年数は3年が主)を卒業します。
毎度のことなのですが、今回も学歴の詳細が不詳なので、最終的な中大法学部の卒業年齢を換算してみると25歳になり、ざっくり検証すると、池間尋常小学校を卒業してから水産高校への入学までに5年の月日がかかっています(卒年から3年間と逆算。4年制の尋常高等小学校の在籍記録が不明)。また、中大予科入学(こちらも卒年から3年間を逆算)までに、水産高校の卒業から3年ほど間が空くことになります。
尚、詳細は不明ですが眞弘の歳の離れた弟(四男)の手記によると、大学入学後に体調を崩して、一時、島に戻っていた時期があったようです。細かいことではありますが、ちょっと気になるポイントです(後にこれが重要な意味を持つことに…)。

大学を卒業すると、眞弘は農林省水産局(現在の農林水産省水産庁)に入省します。中央省庁に就職するのですからエリートといっても差し支えないでしょう(池間島初の快挙らしい)。
入省してすぐの7月に岩崎節子と結婚します。なんと妻の節子は北海道小樽市の出身なのだそうです。すでに昭和の話ですから、直接の関係はないと思いますが、仮にも社会人一年目の入省早々に結婚するということはよくあることなのでしょうか?。それとも学生時代からのお付き合いがあったのでしょうか?(時代的には見合いっぽくもある気がしますが)。しかし、詳細については語られていないのではっきりとはしませんが、宮古人と小樽といえばネフスキー(在小樽は1919年)や、石原雅太郎(在小樽は1911年)というつながりがあります。もしかしたら伏流水となってどこかに小樽閥が潜んでいるのではないかと誇大妄想をしてみたくなります。

眞弘は水産庁の立ち上げから黎明期を支え、キャリアを順調に重ねて来ましたが、1951(昭和26)年に郷里・沖縄の求めに応じて、水産庁を辞して琉球臨時中央政府(のちの琉球政府)の農林省水産局長に就任します。
一貫して水産行政を歩み続けた眞弘は、漁業を通した沖縄の復興に尽力しましたが、1955(昭和30)年に琉球政府経済局水産課長を退職。翌1956(昭和31)年から、のちに眞弘の代名詞となる宝石珊瑚漁の経営へと着手します。

宝石珊瑚漁は魚を追う漁業とは異なり、漁場を探りだす特殊性の高い漁法で、なかなか結果が出せずにいましたが、4年目の1959(昭和34)年9月10日、宮古島北東海域の宝山曽根で、敬愛する伯父の名を冠した福太郎丸が有望な珊瑚漁場を遂に発見します。
この発見は眞弘に請われ福太郎丸の船長を務めていた、高知県貝ノ川村(現・高岡郡津野町)出身の中平兼太郎の功績が大きいものでした。兼太郎の祖父、中平由良平は江戸から明治期にかけて高知で興った、日本初の珊瑚漁の事業化に先鞭をつけた人物なのです(黒潮文化圏の相似形なのか、高知も池間も宝石珊瑚漁と鰹漁に奔走させられます)。
第86回 「沖縄珊瑚漁場開発根拠之地」第86回 「沖縄珊瑚漁場開発根拠之地」
【左】海底地形図:左下の白いのが宮古島(北部)。北東(右上)に向かって等高線が下って上った画面中央、小さな点のような曽根が宝山曽根。
【右】GoogleMapの衛星写真:左下が宮古島、右上が沖縄本島。その間にあるオーストラリアか四国のような形をした台地の左端、点が上下に連なっているあたり(赤い環)が宝山曽根。その北側の赤い▲が第三宮古海丘(別注)。 ※クリックで拡大します


珊瑚漁場が発見された宝山曽根は、宮古島から北東に約90キロにある、いうなれば海底のでっばりです。海底地形図で見てみると、本島と宮古の間に広がる海台(水深100~200メートルの台地)の西端部に、南北に伸びる嶺状の高くなった部分が宝山曽根と呼ばれる海底地形になります。いくら高いといってもあくまでも海面下の話であり、宝山曽根の水深は40メートルほどあります。浅瀬ではありませんが海台の外側の水深は軽く2000メートルあります(南側には琉球海溝も迫っている)ので、相対的にはそうとう“浅い”ことが判ります。

漁場を得た眞弘は、翌1960(昭和35)年から本格的な操業に着手するも、砂糖に群がる蟻のごとく殺到するライバルと、許認可する政府の方針の迷走に業界は翻弄されます。やがて対処療法的に組合が組織され、眞弘は会長に担がれますが、漁場も相場も長期的な資源統制を取ることもかなわず、荒れに荒れてしまい1963年の1万4千キロをピークに水揚げ量は衰退。わずか10年間で資源の枯渇とともに宮古の珊瑚ブームも幕を閉じることとなります。

1979(昭和54)年に妻の節子さんが急逝。後を追うように翌1980(昭和55)年3月17日、心不全の発作により不帰の客となります。妻の急逝を境に衰えの様相を呈したこともあったようですが、若い頃に患った胸部疾患の後遺症による体力の減退だとったとも書かれており、先に弟の云う帰省しての療養はこの疾患だったと考えられます。

第86回 「沖縄珊瑚漁場開発根拠之地」最後に大いに参考とさせていただいた「水産人森田眞弘 著作集」にあった「宮古漁民のタブー~わが久松五勇士の足跡~」という一節を紹介させていただきます。
昭和48年の沖縄タイムスに掲載された郷土史家・牧野清氏の「久松五勇士の足跡」という連載について、眞弘は誇り高き池間民族として、水産畑を歩んできたものとして、納得のいかない点について熱く語っていました。
それは牧野氏の説で石垣島に急使を派遣する段階で、池間・佐良浜の漁民に断られたという記述についてです。牧野氏によるとバフウ(芒種)の季節は天候が急変するから遠い船旅はしないという、漁民独自のタブーによって急使を断られたと解しているのですが、眞弘はこれを池間・佐良浜の漁民の名誉を著しく毀損するものだと訴えています。
というのも、かねてより池間・佐良浜の漁民はこの季節に吹く北東の風を捉え、順風に乗って帆走して石垣へと向かい、八重山の地で数か月間に渡って、池間漁民の優れた漁業技術を駆使して収入のいい出稼ぎ漁に従事し、夏場の南西の風の頃を使って島に戻って来るという暮らしを、鰹漁が操業される頃まで毎年続けていたという事象を説きます。
そんな池間・佐良浜の漁民が一刻を争う島司の命に叛意を示すとは考えにくい。しかも当日の気象状況は、強い南西の風が吹く荒天で、予定していた八重山への急使の派遣も翌日に延期するほどである。そこから考えるに、池間へ平良から使いを出しても、事象の伝達、人選の稟議、派遣支度などもろもろを整えるのには、さらに時間を要することは明白ゆえ、はなから池間・佐良浜に依頼することなく、陸路で平良から近い久松の漁民に急使を依頼したのではないだろうかという、とても興味深い論説を展開されていました。
本書は随筆やコラム、短編小説に至るまで才高き眞弘のが書き起した文と、眞弘を偲ぶ人々からの寄稿で構成されています。眞弘の最大のトピックスである宝山曽根の珊瑚の話は何度となく繰り返し登場することを除けば、眞弘が差し向けた漁業への情熱を通して沖縄の海を知ることのできる良書です。


【関連史料】
「水産人森田眞弘 著作集」(1988年刊行)
「木を見て森を見ず」からの発想の転換③/日中漁業協定の廃止を目指して
                            (宮古毎日 20140509)
第39回 「青雲の志」
第38回 「池間小学校発祥之地」

【第三宮古海丘】 宮古海域で初めて発見さたれ海底火山。活発な火山活動を示す熱水鉱床などは発見されませんでしたが、カルデラ、中央火口丘、噴火に伴う溶岩流の痕跡などが、海上保安庁所属の測量船「拓洋」搭載の自律型潜水調査機器「ごんどう」によって明らかにされました。
この海底火山の位置が比較的、宝山曽根に近く(約50キロ)、霧島火山帯の北側の端っこらへんで、久米島沖の熱水鉱床などが乗っているラインにある感じがします。

溶岩流の痕跡がくっきり!宮古島北方に海底火山(海上保安庁 20160203pdf)
宮古島沖に海底火山 複数火口や溶岩流の跡(NHKニュース 20160203動画)
新たに熱水鉱床発見 伊平屋島沖と久米島沖(琉球新報 20160218オマケ)




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