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2016年05月20日

『続・ロベルトソン号の秘密』 第十三話「チクロープ号、宮古へ」

『続・ロベルトソン号の秘密』 第十三話「チクロープ号、宮古へ」

前々回前回では、1873(明治6)年のロベルトソン号遭難救助の時代背景を探るべく、ドイツと日本の歴史をざっと眺めながら、ドイツ帝国と明治政府のそれぞれの成り立ちや、この時代(1860年代~70年代)の琉球王府の動向を確認してきました。こうした背景を踏まえた上で今回からは、いわゆる「博愛記念碑」(と後に呼ばれることになる石碑)がドイツ側から宮古島に「送られた」経緯を明らかにしていきます。
『続・ロベルトソン号の秘密』 第十三話「チクロープ号、宮古へ」
え?でも「博愛記念碑」はドイツ人がプレゼントしてくれたものなのだから、「贈られた」と言った方がいいのでは?と思った方のために、結論を先取りして言ってしまいますと、日独の交渉経緯を見る限り、この石碑はプレゼントと言うよりは、「ドイツが勝手に送り付けてきたもの」と解釈できそうなのです。なぜそう言えるのか、以下に石碑建立をめぐる経緯を詳しく見ていきましょう。

ヘルンスハイム船長の日記が、1873年の終わりにストラスブール(当時はドイツ領。現在はフランス、アルザス地方の主要都市)で発行され、大きな反響を呼んだことは、今年2月の第十話でも紹介しました。さらにヘルンスハイム自身が、ドイツ政府に対し、島民にしかるべき形で感謝の意を表すべきだと働きかけた結果、ドイツは宮古島に記念碑を建立すること、また関係者に記念品(金時計、銀時計、望遠鏡)を贈呈することを決定します。このことは既に1874年2月18日付けのドイツの新聞「Deutscher Reichsanzeiger」(ドイッチャー・ライヒスアンツァイガー:ドイツ帝国新聞)で報じられていますから、ドイツ政府がこれ以前の段階でこの対応を決定していたことがわかります。

本来なら、宮古島に記念碑を建て関係者に記念品を贈ることが決まったこの時点で、ドイツ側が日本政府に協議を持ち掛けるのが筋だと思うのですが、日本政府にこのことが伝えられたことを示す最初の公文書は、それから1年半以上経ってから、1875(明治8)年10月15日に出されています。この文書において、駐日ドイツ公使館の臨時代理公使テオドール・フォン・ホルレーベン(Theodor von Holleben, 1838-1913)は外務卿寺島宗則に宛てて、以下のことを伝えてきています。

・1873年の夏にロベルトソン号が難破した折、太平山(宮古)の島民が乗組員の救助に多大なる貢献をしたと聞いている。
・ドイツ皇帝(ヴィルヘルム一世)は島民によるこの博愛的な振る舞いを高く評価している。そしてこの事績を後世に伝えるため、遭難救助の経緯と島民への最大級の感謝の意をドイツ語及び中国語で記した記念碑を制作し、島のしかるべき場所(例えば乗組員の上陸現場など)に建立するよう、また救助に功績のあった島民に金銀の懐中時計や望遠鏡を下賜するよう、指示を出した。
・ドイツ帝国外務省は本官(フォン・ホルレーベン代理公使)に対し、記念碑の制作と設置場所の選定を依頼している。なお記念碑は近々完成し、来月初旬にはドイツの軍艦によって横浜に運ばれる予定である。
・ついては今後の取り扱いについて教示願いたい。またドイツ軍艦と記念碑が現地入りすることにつき、現地の関係各機関に通知いただきたい。

これに対し明治政府側は、1875年11月4日付けで、記念碑の建立を承諾すること、またこれを末永く保存するという短い回答を出します。

その後、両国の間で記念碑の設置や贈呈品などに関し、具体的な協議が行われた様子は見られません。また10月時点で「来月はじめに横浜に運ばれる」と言っていた記念碑が完成したとの連絡も届きませんでした。
『続・ロベルトソン号の秘密』 第十三話「チクロープ号、宮古へ」
しかし、翌1876(明治9)年2月になって、事態は急展開します。2月18日付けの文書で、ドイツ公使館の弁理公使カール・フォン・アイゼンデッヒャー(Karl von Eisendecher)より、次の内容が記された文書が外務省に届いたのです。

・ドイツの軍艦「チクロープ号」が上海で記念碑を積んで数日中に横浜港に入港予定であり、その後、島民に贈呈する記念品ともども、指定の場所(=宮古島)に向かう予定である。
・「チクロープ号」は横浜から直接那覇に向かい、そこで艦長は現地当局と記念碑の建立や除幕の方法について協議した後、現場へ向かう。
・ついては、「チクロープ号」艦長に対し、大琉球国ならびに太平山の諸機関の長に対する紹介状を(外務省の方から)発行してやってほしい。さらに、ドイツ語と琉球語に通じた通訳にも同行願いたい。

さらにその3日後、2月21日に、フォン・アイゼンデッヒャーは明治政府からの正式な返事を待たずして立て続けに次のような文書を送っています。

・(昨日行われた、貴省の書記官大原氏との協議の続きとなるが)チクロープ号はあと5日ほどで横浜に到着する予定で、一週間ほどの滞在の後、琉球に向かうことになっている。
・本書面に同封して、太平山の住民に贈呈する記念品のサンプルをお送りするのでご覧いただきたい。また望遠鏡4点と懐中時計8点の受け入れ許可状(島民が外国人から物を受け取ってもよいという公式の文書)を、後からではなく今すぐに発行いただきたい(東京の政府と宮古との距離が遠いので、後から送ったのでは記念品の贈呈に間に合わない)。
・既にお聞き及びの通り、当方としては、まずチクロープ号を那覇まで航海させ、ここで艦長は、琉球藩の最高決定機関において今回の渡航がいかなる使命によるものかを説明し、かつ琉球語に通じた通訳を同船させたいと考えている。
・記念碑建立に関しては、設置場所や時期について、現地の関係機関と協議の必要があると思われる。作業が成功裏に進んだ後に、記念碑の除幕式と記念品の贈呈式の日取りを協議したい。
・このことに関連して、太平山の住民たちが、ドイツの航海者たちに対して彼らが行った博愛的救助を思い返すものとしてこの記念碑を保存していくよう、本記念碑の意味と目的とをしかるべき方法で彼らに教え込んでいただきたく、衷心よりお願い申し上げる。
・最後に、貴省の役人一名をチクロープ号に同行させてくれるという申し出に、深く感謝申し上げる。

この前日に行われたという、ドイツ公使館と外務省の大原氏との協議の内容も気になるところですが、おそらくチクロープ号派遣をめぐる経緯や目的などを説明し、通訳などの手配をお願いしたのではないか、と考えられます。またこの場で、外務省から役人を同行させるとの申し出があったことも推測されます。

これに対して明治政府は、2月27日付けで回答を出し、

・ドイツ側からの文書2点と、同封されていた3点のサンプル(望遠鏡、金時計、銀時計)を受け取ったこと
・住民が記念品を受け取るようにすること、記念碑の意味と目的を住民に教え込むこと、現地の役人は石碑の建立を支援すること、またこれを受け取り末永く保存すること、以上の指示を現地の関係機関に出したこと
・外務省の山村一蔵が通訳としてドイツ軍艦に乗船すること
・琉球語の通訳については、日本語を解する琉球人を那覇港で見つけ出す必要があるが、これは那覇で行っていただきたいこと

以上を伝えた上で、記念品のサンプルを返却しています。

こうした経緯を経て、チクロープ号は横浜に到着(詳しい時期は判りませんが、2月末か3月初旬には入港したと思われます)、通訳の山村一蔵氏を乗せて那覇へ向かい、ここでさらに日本語と琉球語の通訳である多嘉良親雲上を伴って、宮古に向かったのでした。
『続・ロベルトソン号の秘密』 第十三話「チクロープ号、宮古へ」
ということで、今回もまた詳しく紹介しすぎて、物語が遅々として進みませんでした、すみません。ただ、日独間のやり取りを追ってみて、ドイツ側がかなり強引に話をすすめている、という点が浮き彫りになったと思います。島民が記念品を受け取ってよいとの許可状を「今すぐ」発行してほしいとか、「チクロープ号」が上海を出航した後になってから「琉球語とドイツ語の通訳を用意してほしい」といったお願いが日本側に出されている点から、このことがわかるかと思います。特に通訳については、自前で用意しないで出航し横浜に向かった段階で、日本側に用意してもらうのを前提にドイツ側が事を進めていたことがわかります。そしてどうやら、琉球語とドイツ語をダイレクトに通訳できる人がいないかった明治政府は、独→日、日→琉の二人の通訳を用意するはめになり、横浜で山村氏を、さらに那覇で多嘉良氏を乗船させています。お願いする際のドイツ語の文体そのものは、外交儀礼に則って非常に丁寧に書かれているのですが、メッセージ内容はかなり「上から目線」であると言えます。

そしてこの「上から目線」ぶりが最も象徴的に表れているのが、「(宮古の住民に)記念碑の意味と目的を教え込むように」とドイツ側が明治政府に依頼した時に使ったbelehrenという単語です。この動詞、あまりいい意味では使われず、どちらかと言うと「ものわかりの悪い人に教えを垂れる」とか「わからせる」といったニュアンスを持っています。「せっかく遠路はるばる記念碑を運んできて建ててあげるのだから、ちゃんとその目的と意味を理解して大事にしてくれよ。そのための啓発活動も頼んだよ」というドイツ側の本音が垣間見られます。

そんなわけで、宮古の人々の博愛的な行為に報いる、という名目とは裏腹に、随分と島民を見下した表現がドイツ側の言葉の端々に露見してしまいました。こうした批判的な視点から、次回もさらに、博愛記念碑建立の舞台裏に迫りたいと思います。


【執筆後記】
この連載記事を執筆するに当たり、『南島』第三輯に収録された日独間の外交文書をじっくり読み直してみました。すると、以前は時に気にならなかったものの、今回改めて読んでみると、なるほどと思う箇所がたくさんありました。例えば、ドイツ側からの文書にあった「望遠鏡4点と懐中時計8点の受け入れ許可状」という表現。どうして、記念品をもらうのに許可状が必要なの?と思うかもしれませんが、思い出してみて下さい、異国船漂着時に外国人から金品を受け取るのはご法度だったのです(ヘルンスハイム船長も、物をあげようとしてもなかなか受け取ってもらえなかった、と記しています。もっとも最後の方はお酒をもらっていたようですが…)。ですから、カッコ書きで説明したように、「島民が外国人から物を受け取ってもよいという公式の文書」が必要になったんですね。他にも、「チクロープ号」が宮古で記念碑を建てることにつき「琉球藩の関係機関に周知してほしい」というお願いは、とりもなおさず琉球がまだ明治政府の支配下にはないこと、またこうした情勢をドイツ側が把握していたことを物語っています。他方で、沖縄本島の言語と宮古の言語の相違については、日独双方が無頓着、というか理解していなかったことも伺えます。もっとも、宮古の在番には、首里から派遣された役人がいたでしょうから、多嘉良親雲上の話す「琉球語」で何とかなったのかもしれません。でもきっと現地では、さらに那覇・首里の言葉を宮古方言に通訳する人物も駆り出されていたはず。独→日、日→琉、琉→宮、と一体何段構えでコミュニケーションしていたのか、当時の様子が気になります。



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