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2016年02月19日

『続・ロベルトソン号の秘密』 第十話

『続・ロベルトソン号の秘密』 第十話

これまで私たちは、1873(明治6、同治12)年7月に起きたロベルトソン号の宮古漂着と島民による救助、そして乗組員の島での滞在について、船長エドゥアルト・ヘルンスハイムの生い立ちも含めて、詳しく見てきました。では、その後どのようにして「博愛記念碑」が建てられるに至ったのか、これが次の「秘密」になって来ますが、その詳細については今まさに新たな史実が掘り起こされつつあります。以前もご紹介したオーストラリア在住のドイツ人研究者アンダーハント先生が、公文書館などでヘルンスハイム船長に関する資料を多数発掘されていますし、エドゥアルトの兄フランツ・ヘルンスハイムの後裔に当たる方とも接触することに成功していて、未発見の資料が今後さらに出て来ることが期待されているのです。こうした最新の動きについても、このブログで随時お知らせしたいと思いますが、まず今回の「続・ロベルトソン号の秘密」からは、これまでの研究成果に基づいて、1876(明治9、光緒2)年に「博愛記念碑」が設置される経緯を追っていきます。
『続・ロベルトソン号の秘密』 第十話
【ストラスブールの市内 ドイツ名シュトラースブルク】

ドイツ船救助の事実がドイツ本国で知られるようになったきっかけとして、ヘルンスハイム船長の日記をもとにした著書Der Untergang des deutschen Schoners "R. J. Robertson" und die Aufnahme der Schiffbrüchigen auf der Insel Typinsan(直訳すると『ドイツのスクーナー「R.J.ロベルトソン」号の沈没と「太平山」島民による乗組員の保護』)が出版された点が挙げられます。ドイツに帰っていないエドゥアルトの日記や原稿が、どういういきさつでヨーロッパに渡ったのかは不明なのですが、何とこの著書、初版は彼が宮古に漂着したのと同じ1873年のうち(おそらく暮れ)に出版されています。
発行された場所は、普仏戦争でフランスが敗れたことで1871年にドイツ帝国に割譲されたばかりの(現在はフランス東部に位置する)アルザス地方の中心都市、ストラスブール(Strasbourg, ドイツ名はシュトラースブルクStraßburg)です。発行元はフリードリヒ・ヴォルフ(Fr. Wolff)となっています(この出版社についても、今後調査の余地がありそうです)。なおこのヘルンスハイムの著書の初版本は、私の調査した限りでは、現在はストラスブール大学図書館にのみ所蔵されています(下の写真が、同大学図書館で撮影した初版本のタイトルページです)。
また初版出版から8年後の1881年に、ドイツ東部の街ライプツィヒにおいて、ヘルンスハイムのおじのティール(Thiel)のもとで第2版も出版されています。この第2版では(初版に掲載の)ヘルンスハイムの日記の抜粋に加えて、博愛記念碑の設置を報じた複数の新聞記事なども紹介されています(上野村発行の翻訳書『ドイツ商船R.J.ロベルトソン号宮古島漂着記』はこの第2版に拠っています)。

日記を要約したこの本が、宮古でのドイツ船救助の事実をドイツ国内に広めるのに貢献したことは間違いないようです。しかし、ヘルンスハイムの回顧録によれば、この他にも彼はStraßburger Zeitung(『シュトラースブルク新聞』)にも自らの体験を掲載したとされており、この記事がドイツ帝国の皇太子フリードリヒの目に留まり、このこともまた、ロベルトソン号遭難救助に対する国内の関心を高め、「博愛記念碑」を宮古島に贈るきっかけとなったようです。

ちなみに、この年に42歳になった皇太子フリードリヒは、10年後の1883年3月9日にようやく皇帝に即位し、フリードリヒ3世となりますが、わずか3か月後の6月15日に在位99日で亡くなりました(この時代のドイツやフランスを巡る状況はちょっと複雑ですので、次回少し解説をしたいと思います)。

このように、ヘルンスハイムが著書や新聞記事を通して、宮古での出来事を世に広めたことで、何かお礼をしなくては、という気運が高まったようなのですが、そう言いつつも彼は他方でハンブルク市の市当局に対して、宮古島の島民に対ししかるべく謝意を示すよう政府に働きかけてほしい、との申し入れもしており、その謝意の表し方について、自分から次のように提案しています。
以下、長くなりますが日本語訳して引用します(記述の一部に、当時の宮古の人々を蔑視した表現もありますが、原文に忠実な表現を心がけましたので、この点ご了承ください)。
『続・ロベルトソン号の秘密』 第十話
【ヘルンスハイム船長の日記をもとにした著書の初版本】

もし当地の役人に何らかの謝意を示そうとお考えでしたら、それ――つまりおそらくは贈り物を手渡すことになるでしょうが――はドイツの船艦をもって行なわれるのがよいでしょう。というのも、大砲を数発発射するなどすればもう、当地の人々は大喜びするだろうからです。そうすれば役人たちは臣民からの名声を得ることが出来ますし、臣民自身も外国人に敬意を払うようになるでしょう。ただし贈り物に関してですが、銃器や時計の類はどちらも不適当かと思われます。と申しますのも、かの島には銃器が存在しない上、これを持ち込むことや使用することは禁じられているようなのです。また時計を贈ったとしても、島民らはこれを玩具だとしか思わないでしょう。よって、島の大きな仏教寺院に大理石かそれに類する素材で記念碑を建てれば、彼らはこれを誇りに思うことでしょうし、金銭(もちろんメキシコ銀のことですが)を贈るにしてもこの記念碑の装飾とする程度で十分でしょう。さらに、たくさんの公民が押された書類と、もし可能なら港に面した役場に望遠鏡を設置できればなおさらよいでしょう。

この要望と、実際に島に贈られたものとを比べてみると、ヘルンスハイムの希望通りに島民に届けられたものと、彼が贈らなくてもいいと言ったのに実際は島民にプレゼントされたものがあることがわかります。前者は記念碑と望遠鏡、後者は時計がそれに当たります。また記念碑が実際には寺院の中にではなく島の高台に建てられたこと、望遠鏡も役場に設置するのではなく、個人に贈られたなどの相違点もあります。とは言え、大筋ではヘルンスハイムの要望が通っていることも確かです。では、どのようにして記念碑その他の品物が島に届けられたのか、またなぜ贈るなと言ったはずの時計が贈られたのか、次回以降の「続・ロベルトソン号の秘密」では、こうした疑問にも答えていこうと思います。それではまた来月!

【編集追記】 主な人名・地名にリンクを付記しました(GoogleMapとWikipediaより)



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