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2016年03月18日

『続・ロベルトソン号の秘密』 第十一話

『続・ロベルトソン号の秘密』 第十一話

前回の第十話では、普仏戦争とか、ドイツ帝国とか、アルザス地方の割譲とか、ヨーロッパの歴史に詳しくない方にはわかりにくい用語をたくさん使ってしまい、すみません。ロベルトソン号遭難当時のヨーロッパの事情の複雑さに「もやもや」されている方も多いと思いますので、今回はこの時代のドイツの状況を概観してみたいと思います。
『続・ロベルトソン号の秘密』 第十一話
【ストラスブール市内】

まず、ドイツという国はいつからあるのか?というそもそもの疑問から出発したいと思います。これ自体、なかなか難しい質問なのですが、近代の国民国家としてドイツ=ドイツ帝国(≒ドイツ語を話すゲルマン民族主体の国)が成立したのは1871年です。ではその前のドイツはどんな状況だったのかといいますと、300以上の「領邦国家」という小国が乱立している状況でした。

そこで次に、1871年までのドイツの状況を眺めておく必要があるのですが、元々ドイツ(というか現在のドイツに相当する地域)には、962年から1806年までの間、「神聖ローマ帝国」という国が存在していました。この帝国はもともと、古代のローマ帝国の伝統とキリスト教会の権威に支えられてドイツを支配していたのですが、1648年に結ばれた「ウェストファリア条約」(ドイツを主戦場にして行われた30年戦争という、カトリックとプロテスタントの宗教戦争の講和条約)によって、各地方の領邦君主に広範囲の自立性が認められると、帝国の権威は有名無実化し、その後1806年に消滅してしまいます。ですので、1871以前の19世紀のドイツには、統一した国はなく、小さな領邦に分裂していた、ということになります。なおエドゥアルトが晩年を過ごしたハンザ同盟都市ハンブルクも、自治権や裁判権や外交権を持っていたので、町ひとつで国と同等の地位を備えていたことになります。他にも、侯爵領や伯爵領、王国、教会の領地、騎士団の領地など、統一以前のドイツには実に様々な形態のミニ国家が乱立していたのですが、その中でも特に大きな勢力として、現在のドイツ東部からポーランド西部に拠点を持つ、ホーエンツォレルン家のプロイセン王国がありました。結論を先に述べますと、この王国が中心となって1871年にドイツ統一を達成する、という流れになります。ただ、このドイツ統一が下からの民主的な国づくり運動の結果として起きたものではなく、プロイセン中心の上からの、つまり軍事力によって成し遂げられた、という点は、ドイツ人の「お上への服従」や「長いものに巻かれろ」といった迎合の意識を生み、その後のドイツ史に禍根を残すことにもなります。なお、1933年から45年のナチス政権下のドイツは「第三帝国」とも呼ばれますが、これは神聖ローマ帝国、ドイツ帝国(これを第二帝国とも言います)を踏まえてのものです。

【ベルリン市内】
『続・ロベルトソン号の秘密』 第十一話では、ドイツにはフランスのような民主的な国家統一運動がなかったかと言えばそんなこともなくて、神聖ローマ帝国の消滅と時を同じくして19世紀前半に、ドイツ人のための統一国家を作ろう、という運動が盛り上がりを見せます。その背景には、1789年にパリで起こったフランス革命がふたつの意味で影響しています。ひとつは、フランス革命の理念にならって、民主的な国づくりを目指そうといういい意味での影響、そしてもうひとつは、ナポレオン率いるフランスによってドイツが占領(例えばベルリンは、1806年から1808年までフランス軍が占領)されたことへの反発という、ネガティブな影響です。自分たちのことは自分たちで決める、そんな国を作りたいという思いに、フランスへの復讐心(小国に分断されていると占領される、との思い)が加わって、統一したドイツ人の国を樹立する機運が高まります。この国家統一と民主的な政府樹立の運動が最高潮に達したのが、1848年の「フランクフルト国民会議」です。ドイツ中部の都市フランクフルトにあるパウルス教会に、ドイツ各地の代表585名(主に学者や官吏)が集結して開かれたこの会議では、ドイツ統一の方法や統一国家の憲法草案などを協議し、翌1849年3月には、立憲君主制を採用した憲法を成立させ、プロイセン王フィリードリヒ・ヴィルヘルム4世を君主に推戴しました。しかしプロイセン王はこの憲法を受け入れず、即位も拒否したため,統一国家の樹立には至らず、この年に議会は解散してしまいました(簡単に言いますと「もともと王である自分が、なぜ議会から推挙される形で皇位に就かなくてはいけないのか」というのがプロイセン王の言い分だったようです)。

さて、議会による民主的な手続きでの国家統一を拒否したプロイセンはその後、1862年に首相に就任したビスマルク(Otto von Bismarck)のもとで、いわゆる「鉄血政策」にもとづいて産業振興、軍備拡張を続け、国力を増大させていきます。1864年のデンマーク戦争、1866年のオーストリアとの戦争(普墺戦争)に勝利、さらに1870年~71年のフランスとの戦争(普仏戦争)にも勝利して、占領したパリ郊外のヴェルサイユ宮殿にある「鏡の間」でドイツ帝国の成立を宣言、皇帝ヴィルヘルム1世の即位式も行い、ドイツ統一を成し遂げました。それとともにビスマルクも帝国宰相に就任、対外的には諸外国との融和を図りつつ、内政では軍事力の強化と産業の育成に努めたほか、鉄道・郵便・銀行などの経済発展に必要な基盤も整備していきました。なお1873年3月には、国家統一の直後の勢いのあるドイツを、これまた新政府樹立後間もない明治政府の岩倉使節団が訪れています。ドイツ同様に、遅れた国家統一を上から成し遂げた日本が、ドイツを近代化の模範としたのは有名な話です。

【ストラスブール大聖堂】
『続・ロベルトソン号の秘密』 第十一話そんなわけで、エドゥアルト・ヘルンスハイムが宮古島に漂着した時期というのは、ドイツ史の文脈では普仏戦争にプロイセンが勝利し、ドイツ帝国が成立した直後のこと、また岩倉使節団がベルリンを訪問した3か月ほど後のことでした。また彼の漂着記が出版されたストラスブールは、現在はフランスのアルザス地方の中心都市ですが、ここは、1648年のウェストファリア条約でフランス領になったものが、普仏戦争の結果ドイツに割譲されていました。なおアルザス地方は、隣接するロレーヌ地方と共に、その後第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約により再びフランス領になりますが、1940年にはナチスドイツによって再びドイツの支配下に置かれ、その後、第二次世界大戦の終結により再びフランス領となって現在に至っています。

以上、ドイツ帝国の成立に至るまでの歴史を簡単に追ってきました。次回は、明治政府や琉球王国のこの時代の動きにも注意しながら、ロベルトソン号の漂着事件や博愛記念碑の設立過程を見ていきたいと思います。

【参考資料】
ヨーロッパ1000年の領土変遷(ニコニコ動画/3分23秒)
※ドイツの小国乱立ぶりがとてもよく判ります。

【編集メモ】
文中に出てくるフィリードリヒ・ヴィルヘルム4世は第5代のプロイセン王。次の第6代の王が、博愛記念碑を贈ったヴィルヘルム1世で、フィリードリヒ・ヴィルヘルム4世の弟。
父はともに4世の前王、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世(第4代)。尚、ヴィルヘルム1世の息子(第7代)はフリードリヒ3世、孫(第8代)はヴィルヘルム2世という。
もちろん、初代の王はフリードリヒ1世、第2代がフリードリヒ・ヴィルヘルム1世、第3代がフリードリヒ2世と呼び、フリードリヒとヴィルヘルムのゲシュタルト崩壊をおこしそうな王族なのです(プロイセン国王)。

国名の漢字略語
普:プロイセン=普魯西
墺:オーストリア=墺太利(澳地利)



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