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2016年04月15日

『続・ロベルトソン号の秘密』 第十二話

『続・ロベルトソン号の秘密』 第十二話

『続・ロベルトソン号の秘密』 第十二話前回は、ロベルトソン号漂着(1873年)前後のドイツの状況について見てきました。ご紹介した通り、19世紀のドイツでは、あるべき国のかたちをめぐって様々な意見が錯綜していましたが、この問題は、ビスマルク率いるプロイセンが1871年に「上からの国家統一」を成し遂げたことで決着します。
なおビスマルクは、ドイツ帝国の建国後、ヨーロッパ諸国との融和を図る立場から、植民地獲得に慎重な姿勢を堅持していきますが(北のデンマーク、東のオーストリア、西のフランスなど、プロイセンが隣国と戦争を続けてきたため)、植民地主義に対するこうした消極姿勢に対し、ドイツも植民地を持つべきだと政府に働きかけ、実際に「南洋」でのドイツの勢力圏を拡大して既成事実を積み上げ、1884年のニューギニア保護領化を皮切りとする太平洋地域のドイツ植民地獲得の旗振り役を務めた人物の一人こそ、我らが(?)エドゥアルト・ヘルンスハイム船長でした。ということで、エドゥアルトの宮古出航後の足取りも気になるところ、ではありますが、今回はその前にまず、この時代の日本と沖縄(琉球王国・琉球藩)の状況も見ておきたいと思います。【写真:那覇市の護国寺にある臺灣遭害者之墓】

1873年のロベルトソン号漂着、1876年の博愛記念碑建立の時期は、明治政府と琉球王国をめぐる情勢も目まぐるしく変化した、激動の時代でした。ご承知の通り、徳川慶喜が1867(慶応3)年に大政奉還を行ったことで江戸幕府は崩壊、翌1868年に明治改元となり新政府が発足すると、政府・社会制度の刷新が急ピッチで進んできます。
京都から東京への遷都が行われた翌1869(明治2)年には、版籍奉還があり、土地(版)と人民(籍)に対する支配権が諸藩の藩主から朝廷に返還されました(つまり江戸時代の土地と人民の支配権は各藩にあった=徳川幕府はドイツの領邦にも似た小国家が寄せ集まったものだったと言えます)。西洋近代型の中央集権国家の確立を目指す明治政府はさらに、1871年に廃藩置県を行い、全国261の藩を廃して府県を設置します(まず全国に3府302県が置かれ、71年末までに3府72県となった)。またこの年、条約改正交渉と先進国の視察のため、岩倉具視を全権とする使節団をアメリカ・ヨーロッパに派遣します(ロベルトソン号漂着の少し前に当たる1873年7月には一行がベルリンを訪問したこと前回も紹介した通りです)。
この他、1870年に農民や町人(平民)の苗字許可、1871年に平民と華族・士族間との通婚、移動や職業選択の許可、1872年に学制の制定による国民皆学制度の導入など、近代的な国作りが進んでいきます(但しこうした制度改革がすぐに国民に行き渡ることはなく、封建主義的な要素も引き継がれていきます)。そしてこの1871年から72年の間に、琉球をめぐる位置付けも大きく変化していきます。その中で最も重要な出来事が、1872年の「琉球藩王の冊封」です。
廃藩置県直後の1871年8月、大久保利通は岩倉具視に、琉球問題への関心を示す書簡を送っています。また同年11月に欧米視察に出発した岩倉使節団は、西洋近代の国際ルールと近代国家の仕組みを目の当たりにし、「万国公法」つまり国際法に則った外交を行う必要性を認識します。
『続・ロベルトソン号の秘密』 第十二話そうした中で、清国への冊封と日本への従属という従来型の二重支配体制に代わり、日本の「内地」と同じ制度を琉球にも導入すべきである、とする意見が、1872年5月、大蔵大輔井上馨により出されます。その結果、同年9月、「維新慶賀使」(本来は将軍の代替わりに際して送られた使節だが、今回は明治維新に対する慶賀使節となった)の上京に際し、尚泰王を琉球藩王に冊封し華族に列する詔書が出され、これにより琉球王府の外交が明治政府の外務省の管轄となりました。
【写真:臺灣遭害者之墓の解説】


こうした動きとちょうど時を同じくして、1871(明治4)年10月、宮古の春立船が那覇からの帰路、台湾南東部に漂着し、69名の乗組員のうち3名が溺死、さらに54人が現地住民に殺害される事件(いわゆる「牡丹社事件」)が起こります。これを機に、宮古の人は国際的に見て「何人(なにじん)」に当たるのか、また台湾で起きた漂流民殺害の責任はどの国が取るのか、という問題が生じ、これまでなら個人対個人の問題であった事柄が、個々人さらには琉球王府も飛び越えて、日本(明治政府)と清国との国際問題に発展していきます。その後1874年6月に、西郷従道(西郷隆盛の弟)率いる征討軍が台湾の原住民を制圧、10月にイギリスの仲介で和平が成立し、清国が日本に見舞金を支払い、日本が台湾から撤兵することで事件は決着します(翌75年には明治政府から被害者に見舞金が支払われたとされる)。

【写真:鹿児島市にある、西郷隆盛生誕の地】
『続・ロベルトソン号の秘密』 第十二話台湾出兵の背景には、明治維新により職を失った士族の不満を国外に向ける意図があったと言われています。出兵前年の1873年には、西郷隆盛が同じ目的で征韓論を主張(これが受け入れられず、西郷は参議と陸軍大将を辞して鹿児島に帰郷、77年に西南戦争に敗れて自決)していますので、台湾出兵は征韓論の考えを台湾で実行に移したものとも解釈できます。また明治政府内には、出兵を機に、台湾を植民地する計画もあったと言われています。さらに、結果的に見れば、明治政府は出兵を通して、琉球が日本の一部であることを国際的に認知させることに成功したとも言えます。このように、様々な思惑が絡み合って、宮古島民の殺害を口実にした台湾出兵が、島民の意志とは無関係に行われていたわけです。
こうした文脈の中に、ロベルトソン号の漂着事件を位置付けてみましょう。漂着は1873年7月に起こっており、これは71年の台湾遭難事件の2年後、また台湾で生き残った12名が宮古に帰郷した翌年であり、琉球王府の立場から見ると、尚泰王が藩王に冊封(=格下げ)された翌年にもあたります。またロベルトソン号漂着の翌年(1874年)には台湾出兵が行われた上、琉球藩の管轄を外務省から内務省に変更しており、この時期に明治政府が少しずつ、琉球を日本に取り込んでいく様子がわかります(他方で王府はこの間も、1872年、1874年の2度、清国への進貢船を送っており、引き続き日本と清国への両属の状態が続いていたこともわかります)。最終的には、1879年の琉球処分・沖縄県設置により、琉球が日本に組み込まれることになりますが、こうした流れを「併合」と呼ぶのか「植民地化」と言うのか、「編入」と考えるのかは、歴史家によって意見が分かれるところです。

【写真:西郷従道生誕の地の碑。隆盛と同じ場所にある】
『続・ロベルトソン号の秘密』 第十二話とは言え、琉球王府も手をこまねいたわけではなく、清国や欧米各国の駐日公使らへの請願、明治政府高官への嘆願、交渉の引き延しなど、様々な形で抵抗を試みています(実際に、1875年に処分官に任じられた松田道之が琉球処分を完了したのは1879年です)。ただ、裏を返せば、琉球王府は存続の危機にさらされていましたから、その渦中にあって、宮古での異国船漂着のことに関わっていられなかったと言えるかもしれません。もしくは、外交が日本の外務省の管轄となった以上、ロベルトソン号の漂着に関わっては明治政府に非難の口実を与えてしまうと判断し、この件に関与できなかったのかもしれません。いずれにせよ、琉球王府は、ロベルトソン号の漂着を知りながら、宮古の当局に何も対応を指示していませんでした。
このように、琉球王府が日清両属の状況から、台湾遭難事件、台湾出兵を経て次第に明治政府の支配下に組み込まれるプロセスの最中に、ロベルトソン号漂着事件は起こりました。こうした背景を踏まえて、次回からは「ドイツ皇帝博愛記念碑」の設立の経緯に迫り、その後さらに、宮古を旅立った後のエドゥアルト・ヘルンスハイム船長の動きについても追っていきたいと思います。

【参考文献】
『宮古島市史 第一巻 通史編 みやこの歴史』、2013年。

【参考資料】
波上山三光院 護国寺
[MAP]台湾遭害者の碑(那覇市 護国寺)
[MAP]西郷隆盛、西郷従道 生誕の地(鹿児島市)



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