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2016年01月02日

[新春特番] ATALAS新春放談2016 ≪前編≫

[新春特番] ATALAS新春放談2016 ≪前編≫

ATALASネットワークの新春企画として、東京と宮古島をskypeで結び、2015年のATLASネットワークの活動を振り返りつつ、2016年の展望のようなものを、『新春放談2016』のようなものをやってみました。お年玉にはほど遠い、ぐだぐだなトークですが、初笑いとしてお楽しみいただければ幸いです(本企画の説明趣旨については、新春放談2016 ≪序≫をご覧ください)。
【出演者】
     [メインMC]  宮国優子
     [ゲスト壱]   Koitaro YASUNAKA(沖文研・宮古研究会
     [ゲスト弐]   江戸之切子(沖文研・宮古研究会)
     [アシスタント] モリヤダイスケ 
くわしくは新春放談2016 ≪序≫をご覧ください。
ATALASネットワークpresents
新春特番『新春放談2016』
≪前編≫


宮国優子(以下、優)「あけまして、おめでとうございます」

Koitaro YASUNAKA(以下、K)「宮国さん、あけましておめでとう。いよいよ宮古研も2年目に入り、いろんな出来事がありましたね」

江戸之切子(以下、切)「怒濤の1年でしたねー」

優「確かに、笑」

K「昨年は1月から怒涛の1年でしたね」

モリヤダイスケ(以下、モ)「じゃあ、振り返りで、1月から!」

切「宮古研究会発足の年でもありました。あれ、宮古研は去年じゃなかったかも・・・」

優「らしきものは数年あって、本格的には2014年からですね。今年の4月からは『島を旅立つ君たちへ』で関わった宮古高校の卒業生たちも(宮古研究会に)顔を出してくれるそうです。島の事を勉強したい、って云ってました。それを島の後輩たちにつなげたいですね」

モ「1月なにやったっけ(笑)」

優「怒濤過ぎて記憶が曖昧です…」

K「仲間明典さんでしたね」

モ「第4回みゃーく市民文化センター講座の開催日は1月10日で、『伊良部 のカツオ漁と密貿易の歴史』というテーマでした」

[新春特番] ATALAS新春放談2016 ≪前編≫優「小池君の密貿易の発表があったね。一番面白かったのは、その小池君と、下地和宏・宮古郷土史研究会会長との質疑応答でした」
※小池康仁(現在は与那国島に駐在中)
著作 『琉球列島の「密貿易」と境界線—1949‐51』
ATALAS Blog 「うむいかーどぅある台湾」

K「下地和宏先生の厳しさといったら、ハンパじゃなかったなぁ」

切「行きたかったなー」

K「よく知らなかったから、この人、ナニ?っと思ったよ(笑)」

切「どんな質疑があったのですか?」

優「密貿易という言葉にこだわっていましたね」

切「なるほど!」

優「その際、今は与那国島に在住してる、小池君のたくましさを感じました。東京にいた頃とは全然違うの(笑)」

K「小池さんは与那国に島流しになって、立派になったと思い直しました」

モ「和宏センセーは、確認していただけなんですよ」

K「確認の仕方がしつこいとしか思えなかったな。でも、まわりはそこが一番面白かったと云ってましたね」

切「和宏先生はかっこいい!!」

優「確かに!鋭かった!(笑)」

モ「この時、復興貿易と云う言葉を初めて知りました」

優「さてさて、ちょっと振り返り。密貿易とは何でしたっけ?」

モ「密貿易も復興貿易も行動は同じ。しいて云えば、目的が違うってことじゃなかったっけ?」

優 (QABの資料をリンクUP)
   『写真で見る宮古の戦後 復興支えた密貿易』(2009年9月4日)

K「そうそう。(仲間)明典さん、すでに酔っぱらってたよね」

優「いや、二日酔いでしょ(笑)」

モ「明典さんは、終わったアトの流れ打ち上げも面白かった」

優「伊良部の将来についていろいろ話してくれましたね、未来予測というか」

K「その時はまだ、伊良部大橋ができてなくて、明典さんはお疲れさん会の会場から、伊良部へ船に乗って帰ってったもんな〜」

切「そうだ、今年は伊良部大橋ができた年ですね」

モ「開通は1月31日でした」

優「1月末までが船だった?」

モ「船は橋の開通した31日まで運航。唯一、この日だけ船と橋を同時に使うことが出来ました」

K「うずまきロール(うがまきバンのこと)もいただきました」

優「そして『島を旅立つ君たちへ 2015』の表紙は完成半年前の写真です」

切「無料で渡れる橋としては、日本で一番長い3540メートル!」

優「観光の起爆剤になってくれたかなぁ」

モ「佐良浜航路の船か終わった日でもありますよ。1969年から続いていたから」

切「宮古島の色々が、がらりと変わったんですね。池間大橋とか、来間大橋の時を思い出す人もいたでしょうね」

モ「ちなみに。手前味噌ですが、伊良部大橋開業翌日(2月1日)に開業した、共和バスの平良港発伊良部島・佐和田車庫行き、初便のバス前面展望の動画があります」

優「仲間(明典)さんは、橋ができることで、島の人の心や精神性が変わっていくんではないかと云っていたよね」

モ「今、(大橋開通による)ストロー効果が出てきていて、伊良部での消費が減ってるそうです。公共工事も(宮古島市に合併したこともあって)平良の大きい業者が受注していたりするし…」

優「そうそう。伊良部島の経済が変わったという話が、年末の新聞に出ていたね」
   滞在時間延長など課題/伊良部観光(宮古毎日2015年12月26日)

優「それから、県内でも取り上げられて、本島のひとも旅行にくるようになった感じがする」
   <社説>伊良部大橋開通 島の未来切り開く礎に(琉球新報2015年1月30日)

切「架橋と離島の問題は、沖縄に限らず各地で切実な問題ですね。良いところもあり、悪いところもありで」

K「講座に来てくださった人々の職種が、一番広かった気がするなぁ」

切「職種。どんな風にですか?」

K「んー。普通に漁師をやっている方から、下地和宏センセーまで!」

一同「(笑)」

優「その和宏先生が、2月は沖縄大学で講演をしていただきましたね」

K「2月は初めて沖縄本島でやった講座でしたね」

モ「第5回みゃーく市民文化センター講座を、『地域に根付く購買店〜宮古・狩俣を中心に〜』というテーマで2月15日に沖大で開催しました」

K「1月に司会を務めた時は時間を気にしていましたが、2月の下地先生は、きちんと時間を守っていただきありがたかったです」

切「和宏先生はかっこいい!!」

モ「切子さん、それ2回目(笑)」

切「共同売店の話でしたね」

優「(沖縄大学の)宮城(能彦)先生も、県内の共同売店の講話をして下さいました。これは宮古でもう一度やっていいネタだよね。特に狩俣や島尻の高校生たちに発表とかしてもらいたい。とても地元に誇りを持っているから」

切「和宏先生は、狩俣の人は真面目だと云っていました」

優「和宏先生の出身は違っているからますますそう思うのかな。集落がちがうだけでまるで全然ちがう方言だし、印象も大きく違う。和宏先生の云う狩俣のマジメさ、賢さが共同売店を成功させたんだよね。」

切「共同売店が成り立つ条件として、共同体が大事だと云っていました。売る側も買う側も思いやりがあってこそ成り立つって」

モ「お通帳」[新春特番] ATALAS新春放談2016 ≪前編≫

優「うちでも、お通帳やろうかな。Tandy ga tandhi@大岡山」

モ「協同組合だから、システムとして月会費払わせないと(笑)」

切「株式会社とおなじシステム〜」

優「思いやり、っていうのがほんとに心に響くキーワードでした」
   狩俣購買店、株式会社に 県内共同売店で初
   (琉球新報2009年11月29日)

モ「(講座の)中身はとても面白かったんだけど…(汗)。裏方としては、慣れない場所だし、完全にアウェイだったので準備とかが大変だった〜」

優「あ、そうだ。映像を中継したんだよね」

モ「結局、中継はぐだぐたに終わったんですけどね(冷汗)」

優「電波状況などなど、改善点はいっぱいあったもんね。でも、どっちにしても、宮古で見てくれた人もいたし、思いやりがある人たちがいろいろサポートやアドバイスをしてくれた。ありがたかった」

切「つむかーぎ!」

優「切子さん、半分宮古の人だ(笑)。私はその言葉思い浮かばなかった。つむ(心)が、かーぎ(美しい)だね、確かに」

切「宮古方言は、ドイツ語とかフランス語に聞こえるときがありますよね」

優「あはははははは?」

切「ケナンさん!」
※セッリク・ケナン。 今、島で話題のイケメン外国人言語研究者。京都大学院博士課程在籍。

優「そうそう、第二のネフスキー!」

切「鳴りとぅゆん(鳴り響く)みゃ〜く(宮古)方言大会にも出てましたね」
   最高賞はフランス人/みゃ〜く方言大会(宮古毎日新聞2015年7月14日)

優「ケナンさん、大活躍の年でした。文化を掘り起こして、若い世代につなげてくれるような気がする。そういう人が増えた。宮古の古い歌を復活させた(三線唄者の)興那城美和さんとか。今年は『島を旅立つ君たちへ』のワークショップもしていただきました。今年は、ケナンさんとワークショップが出来たらいいですね」

切「宮古をよく知らない人にも、宮古の面白さを伝えてくれる役者が揃った年でもありましたね。宮古のいろんなところでドッと文化活動や講座が増えた」

優「切子さんがいう『知らない人にも面白い宮古』って、たぶん高校生たちにも一緒なんですよ。でも、まだ高校生が参加できるものは少ないので、ATALASはそこを進めていきたいですね。(まだ途中だけど)今年度、高校生たちと一緒に歴史文化を探訪する催しがあったのは、うちの団体だけかもしれませんね。宮古研究会のみなさん、ご支援よろしくお願いします」

モ「ねぇねぇ。下川貞文の教え子が、冨盛寛卓で、冨盛の教え子が、慶世村恒任って、知ってた?」

優「(モリヤの話を切り捨てる)聴いたよ(笑)。なぜいきなりディープなネタ、放り込む」

モ「ちぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ」

K「うん。それで論文書こうと思ってます」

[新春特番] ATALAS新春放談2016 ≪前編≫優「宮古の文化活動の流れとか人間模様とかめちゃくちゃ面白い!たくさんの人たちが関わっていたんだよね。高校生たちも絶対、親戚がいると思う(笑)。そうだ!冨盛寛卓!」

優「1910年の冨盛寛卓の著書「郷土誌」から105年!」
(「宮古の歴史」P295から探して来て…)
優「一世紀ちょっとこしたところで、若者の出番(笑)。私たちもがんばるぞ(笑)」

モ(冨盛の経歴についての史料写真をUP【左】クリックで拡大します)

切「ツジ先生のロベルトソン号の論文と、K先生と宮国さんの宮古島最古の映像の論文ができた」
『宮古島「ドイツ皇帝博愛記念碑」を複眼的に捉え直す−宮古島郷土史、ドイツ植民地史の研究成果に立脚して』(pdf)
『宮古島最古の映像に関する一考察』(pdf)

K「プラス、ツジさんのエドの回想録の翻訳」
K「それをいうなら、十一郎日誌の翻刻もしなければね」

モ「それはKさんが、早くやって下さい(笑)」

切「ドイツ組の宮古オタクっぷりがすごーい。ブンダバー!」

優「実は今年、何か知ってる?」

切「サル年!」

優「いいやいや。何かの100年目なのよ(笑)」

切「北中に、猿が来てから!」

K「おい!!」

切「んーっ。去年は戦後70年だったでしょ…」

モ「今年はコラ颱風襲来、50年目だけど…うーむ」

優「いいねぇ、モリヤさん(笑)」

K「平二小、平一小に乱入」

優「おい、こら〜(笑)。えーと、戦前組がいるんです!これヒント!」

モ「1916年は…大正5年か〜」

切「貨幣制度の導入(某先生説)」

モ「貨幣はタカラガイだよ、八重干瀬にいって獲って来るの(笑)」

優「おいおい(笑)。あーもう。答えはね…じゃじゃーん!」
優「下川凹天がアニメーションを本格的に作り始めたんですよ。アニメはその2年後に完成するんだけど、現物はまだ見つかっていないの」
【wikipediaより引用】
1916年、東京パック社に天然色活動写真株式会社(天活)からアニメーション製作の人材を紹介してほしいという話が持ち込まれ、両者の話し合いの結果、凹天が推薦されることになる。凹天は月給五十円で歩合付きという好条件と日本初のアニメーション製作という熱意もあってその仕事を引き受ける。
資料が少ない中、凹天はアニメーションの研究を行う。同時期、小林商会で幸内純一が、日活で北山清太郎が独自にアニメーション制作を開始。1917年(大正6年)1月、下川が手がけた短篇アニメーション映画『芋川椋三玄関番の巻』が公開され国産アニメーション映画の第1号となったが、他の2人との差は数カ月程度でそれぞれ独自の方法で製作しているため、3人ともアニメーションの創始者として扱われている。
凹天は当初、黒板にチョークに絵を描いて撮影してから、少しずつ絵を消したり書き加えたりしながら1コマずつ撮影する方法をとっていた。3作目の『茶目坊新画帳 蚤夫婦仕返しの巻』までは、この方法をとっていた可能性が高い。 続いて用いたのは、3種類ほどの背景が大量に印刷し、一部分のみホワイトを塗る。その塗った部分に登場人物を描いて撮影する方法である。
しかし、その撮影に使った電球の光のせいで眼病を患い、赤十字病院に1年半入院。天活を辞めることになり、以後アニメーション制作に関わることはなかった。日本アニメのパイオニアが皮肉にもアニメーターの職業病第1号となってしまったのである。
モ「ちなみに、凹天のとーちゃんが、さっきの下川貞文なんだす」

優「そしてそして、ここで驚く事に、宮古の若者がアニメーションというか、今で云うモーショングラフィックを作るグループが出てきた。今度、ゆっくりやり取りする予定です。『島を旅立つ君たちへ』にも協力してくれるとのことです。この一丸になる感じ。宮古っぽい」

切「ブンダバー!」

優「なんだよ(笑)」

K「Wunderbar!」
※ドイツ語で「すばらしい」の意味

モ「ワンダバは帰ってきたウルトラマンだよ」

優「へーーーーーー!。ドイツ講座、急に(笑)」

切「ドイツ語と宮古方言が似ている件」

切「バタフサリとか」

優「そうそう(笑)」

モ (古いアニメ動画を資料として出す)
Humorous Phases of Funny Faces

優(引用する資料をコピペ)
【wikipediaより引用】
「日本における訳語の変化」
明治期末に国外から短編アニメーションが輸入、上映され、「凸坊新画帖」と題されて公開された。これが最初のアニメーションの日本語訳ともみなされる。
アニメの主流である商業用セルアニメーションは、映画の場合は「漫画映画」、テレビの場合は「テレビ漫画」と呼ばれていたが、今日では「animation」をそのままカタカナに訳した「アニメーション」、略して「アニメ」と呼ばれている。「動画」は、日本最初期のアニメーション制作専門会社である日本動画株式会社設立に加わったアニメーターの政岡憲三による提唱で、アニメーションの日本語訳として使われ、その後もアニメーション業界団体が多数加盟している社団法人日本動画協会や、制作工程での原画・動画としてなどにも使われている。さらに遡ると、「線画」「漫画」「繰画」という呼称があったという。
切「日本初のアニメ制作者が宮古の人だったとは!」

優「(東京国立近代美術館)フィルムセンターだったかな?。そこで(知ったんだけど)カメラはフランス、ドイツ、ついでアメリカが入ってきたと云う感じだった。その流れに下川凹天も展示されている」

優「(古いアニメを見て)きっとクレイアニメに近かったんだね〜。(でも、宮古の若者がやろうとしているのは)デザイン的にはモーショングラフィック。どっちにしても、その当時の最先端。」

モ「ええと、パラパラマンガはセル画に、黒板にチョーク書きはクレイアニメ(ストップモーション)に近いのかな」
エミール・レイノー Emile Reynaud アニメーションの始まりについての資料

優(引用する資料をコピペ)
【wikipediaより引用】
アニメーションは、セル画によるものだけでなく、人形やCG、スライドによるものを含む。1902年のジョルジュ・メリエスによる『月世界旅行』の最後の、ロケットが港に戻るシーンで、すでに切り絵アニメーション(静止した背景画の前で、船の切り絵を少しずつずらしてコマ撮りする)が用いられ、これが映画のコマ撮り(ストップモーション)によるアニメーショントリックである。
作品としては、1892年にフランスで作られたエミール・レイノーの『哀れなピエロ』(原題:Pauvre Pierrot)を初めとする一連の作品がある。しかし、レイノーの作品は純粋な意味での映画ではなく、テアトル・オプティークと呼ばれるゼラチンフィルムに別々に描かれた手書きの人物と背景をプロジェクターで同時にスクリーンに投影する装置によって上映されていた。他にアメリカのジェームズ・スチュアート・ブラックトン(英語版)監督による『愉快な百面相(英語版)』(1906年、原題:Humorous Phases of Funny Faces)などがある。これは黒板に白チョークで描く実写と、そのコマ撮りを組み合わせた線画アニメであり、この最後のピエロの部分では白い枠線の切り絵がチョークアニメーションと組み合わされて用いられている。またアメリカでは1928年から『アメリカン・アニメーションの黄金時代』が始まっている。

ファンタスマゴリ(英語版)
世界最初の実写部分を含まない純粋な短編アニメーション映画は、フランスの風刺画家エミール・コールによる『ファンタスマゴリ(英語版)』(1908年、原題:Fantasmagorie)である。以後、数年間でアメリカおよび映画発明国フランスで線画アニメ映画の製作が盛んになった。世界初の純粋長編アニメーション映画は1917年にアルゼンチンのキリーノ・クリスティアーニによって製作された。
優「なるほど、凹天さんがつくった時代の背景は世界につながっているんですね。今のモーショングラフィックも基本的には同じだと思うよ。時代が後押ししてる。そこを外さないよ、宮古人は(笑)」
※モーショングラフッィクのサンプル動画 [Viet Sub] Japan - a strange country

優「百年たって、宮古で最先端の技術で表現ができるようになった。凹天さんの時代では東京でしか、それも選ばれた人しか出来なかった。島に帰りたいと晩年言ってたようだから、後輩たちの息吹に天国で喜んでいるんじゃないかな」

モ「もしかして、タイムプラス?」
※タイムプラスのサンプル動画 D810 D800 天の川 &星景タイムラプス IN 宮古島

優「これも、ほんと素晴らしい。どんどん宮古で作って、発信してほしいよね。そして、その自然に支えられた宮古人の精神性や文化力を既存の物差しで計らないで、ただただ感じてほしいなぁ」

K「でも、(昨年は)宮古研として4月以降の活動が、ぱったり止まってしまったのが残念ですね」

優「そうかな?。6月の講座に向けて頑張ったではないですか。その間、みんなマジメに本読んでたみたいだし。私は忙しすぎて、読んでないけど・・・・」

切「ひとりひとりが頑張るのが宮古式!」

優「そうそう。個人の頑張りにみんなが応援し合うメンタリティ」

K「もうちょっと計画してたら、読書会やいろいろないろいろなイベントがやれたかな」

優「ATALAS的には、読書会とかの資料を頂きたいですね」

K「ひとりひとりならみんなやってますが、宮古研として、これだ!というものが、『島旅君』への布石だけになってしまったような…」
※島旅君。ATALASネットワークの高校生と冊子を作るプロジェクト「島を旅立つ君たちへ」の略称。

優「ここはATALASも随分お世話になりました。擦り合わせとか、確認とかも含め」

※     ※     ※     ※     ※

ピピーーーーッ!
はい。ここでハーフタイムです(笑)。
ひとまず、新春放談2016の≪前編≫はここまで!
実に濃ゆくて熱い内容が、ガンガン進行していますけれど、ちょっとクールダウンとします!
続きは、また明日(1月3日)の12時にお逢いしましょう。

新春放談2016≪序≫
新春放談2016≪後編≫



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