2017年10月03日
第155回 「井戸改築記念碑(比嘉の中井戸)」

えー。10月になりましたが、まだ続いています。井戸に関係した石碑のシリーズ。今回は第153回「桃之川」からの続き。比嘉の中井戸です。
続きとはいえ、別に井戸が直接つながっているわけではなく、同じ比嘉の集落にある井戸的な感じのつながりです。桃之川の回で比嘉の集落が風土病の多発によって、「下の島」の元比嘉から「上野嶺」の現在の位置へと移転した話を書きましたが、その新しい比嘉集落に掘られた井戸が今回ご紹介する比嘉の中井戸です。
場所は平良から福里へ向かう城辺線(県道78号線)の途中。左斜めに分岐して比嘉の集落がある丘の中央を分断するように登ってゆく道の途中。比嘉の偉人・比嘉財定の生誕の地(第121回「比嘉財定先生之像」)から、もう少し坂を登ったあたり。民家の間に井戸はあります(ちょっと導入が遠すぎましたね)。
コンクリートの囲いに護られた掘り抜きの井戸は、さすがに今は使われていないためか、井戸穴からウプパギがニョッキリ顔を出しています。なんとなく自然へと帰ろうとする大地の力に、人間が切り開いて来た生活圏が負け始めている兆しを見るかのようです。
肝心の石碑ですが、井戸の後側。囲いの上に香炉と一体化して建立されています(井戸の水の神様なので、香は焚かない)。
小ぶりな碑の表面にはこのように刻まれています。昭和六年二月
井戸改築記念碑
字比嘉中川
昭和の初めに改修されたことを記念しています(カーの語源は川なので、中井戸ではなく中川と書かれている)。
石碑の裏面(と一部の側面)には、まず、上段に改築者として3名の名前があります、恐らく当時の字の有力者だと思われます。それに続いて高額寄付をしている青年團(拾円)、処女團(五円)。もうひとつ四拾五円もの寄付をしている戸主一同(?)とおぼしき団体名があります(掠れて正確に読めない)。
また、中段には功労者として10名(一部側面へ飛び出している)。下段に寄付者(個人)が10名が記入されています。
丘の下の元比嘉から現在の場所へ集落が移転したのは1862年のこと。そして石碑にある改修は昭和6年。西暦に直すと1931年ですから移転から69年後となります。尚、「比嘉自治会創設150周年記念誌(2012)」では1930(昭和5)年に中井戸が破損したので改修したと記述されており、差異が認められますが、破損した年が1930年で、改修完成が1931年なのではないかと考えられます。

では、井戸が掘削されたのはいつ頃なのか。こちらも「比嘉自治会創設150周年記念誌」に記述がありました。
1904(明治37)年に共同の井戸として、中井戸が掘削されました。掘ったのは来間人の来間真津という人物であったそうです。おそらく井戸掘りの職人なのだと思われます。集落の共同井戸として掘られた時期としては、かなり古い部類に入るようです。ちなみに、桃之川の掘削が再集落化した1916(大正5)年ですから、中井戸はそれ以前からあったことになります。
しかし、集落の移転時(1862年)と中井戸の掘削(1904年)されるまでには時間差があります。この間の水利はどうやら、集落東方にある比嘉の大泉(ウプカー)や、北側の野加那泉(ヌカナガー)まで出向いて水を得ていたようです。もうひとつ、前原ヤー井戸を利用していたと記述もあるのですが、この井戸については所在が一切不明なのです。どなたかご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひご教示ください。
最後に、話には出てきませんでしたが、比嘉にはもうひとつ有名な泉(カー)あります。
集落の北。さらに丘を登った仲尾嶺にある按司の泉(カー)です。高腰城址を根拠地とした高腰按司に関連する泉です。この泉が不思議なのは、標高が高い場所にもかかわらず、こんこんと水が湧き続けている湧水なのです。隆起珊瑚の島特有の琉球石灰岩の大地ゆえの不思議でしょうか。宮古島の水脈は本当に不思議です(ちなみに、比嘉大泉、野加那泉とも、汲み上げ井戸ではなく湧水になります)。
Posted by atalas at 12:00│Comments(0)
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