2017年08月08日
第147回 「改鑿記念碑」(アナガー)

先週に引き続き宮国の井戸(カー/泉・川)です。今回はうえのドイツ文化村の正門前にあるアナガーです。こんなところに井戸があることを知らない観光客の皆さんも多いのではないでしょうか。しかも、ここの井戸はかなり立派な降り井戸(ウリガー)なのです(副井戸もある)。そしてこの井戸を改修した時の記念碑こそが今回のターゲットです。
碑は経年劣化してひび割れが生じているコンクリート製で、碑のサイズに比べてかなり大きな台座(画像に全体は写っていませんが、碑の直下にある二段の台の下に三段目があり、撮影位置の碑の手前の方に長く伸びています)の上に建立されています。また、この碑の右脇というか、裏手の枯草に覆われたスペースは拝所になっています。アナガーは集落の人たちにとって重要な井戸なので、祭祀の際には敷地内のあちこちに拝む場所か決められています。
この手の井戸の改修を記念した碑の多くは、どういう訳か「記」の字が糸偏の「紀」であったり、つくりが「己」ではなく「巳」であったり、あるいは「糸巳」であったりします(正確には巳ではないらしいのですが、デジタルでは表現しきれません)。この不思議というか、謎は今もって判りません。ご教示いただけたら幸いです。あ、ついつい話がそれてしまいましね。
【左】冷たく透明度の高い水をたたえたアナガーの水槽。【右】アナガーに降りる木漏れ日の石段。
井戸が改修されたのは大正15(1926)年。碑の背面と右側面には井戸の改修費用の出資者の名前が、金額順にずらりと刻まれています。
そして左側面には井戸名で「穴川井戸」と、どーんと大書きされています。その左下の方には「石工」とだけ刻まれいます。そうなのです。なぜか石工の名前がありません。この時期の石碑にはよく石工の名が記されているのですが、この場合、コンクート製の石碑だから石工じゃないとかいうオチなのでしょうか?。石工は井戸本体の改修に石組を修繕した訳ではないのでしょうか?。とっても謎です。(名前を消されたわけじゃないだろうけど)消された石工はどこに?。人柱ということはないよね?。ちょっとブラックなジョークを含んでみましたが、階段の途中(石碑の裏手あたり)の石垣が山体崩壊しそうな感じで内部が大きく膨れていて、崩落の危険性が増しています。早急に石工を呼んで平成の修繕を行った方が、良いのではないかと思われます。
【左】膨れている石垣。直上には石碑があります。【右】隣の副井戸。水浴びガーともいわれている。
さてさて、先週のアマガー水道落成記念碑でも予告した、雍正旧記(1727年)の記述に切り込んでみたいと思います。
今回のアナガーはシロート目にも「穴川」であろうと想像できますが、どういう訳かこのアナガーに置かれている解説板には、「東井」であると書かれているのです。じゃあ、穴川はどこに?。
よく、こうした東西南北の名称をつける際は、村の中心である番所を起点として方角を示します。旧・宮国集落(津波の前の元島)はこのアナガーから、東方のスカプヤー御嶽に近い場所にありました。そこにある番所から西にある井戸のことを、東井と呼ぶにはかなり無理があると考えます。
もうひとつよく問題される民俗方位と磁方位の相違ですが、宮国集落は海を南としてため、ほぼ一致しており方角のずれも生じていません(しかも、旧村の番所の東、南西楽園の寮のそばには大井/ウプカーという井戸がある)。
もうひとつの側草川。こちらは推測推察の説を頼りにしておりますが、おそらくアマガーのことであろうと考えています。後述しますが、消去法であてはめてゆくとにコレなってしまうのです。
呼称についての推論としては、アマガーの天川は当て字で、「甘い水」つまり美味しい水とか、良い水の井戸ということではないかという説があります。また、側草(そばくさ)という名称も音だけで図ると、祭祀で装飾に使用する草冠の呼び名に似ていることから、井戸の周辺に冠を編む草が自生していたのではないかという大胆な説があります。いずれにせよ、あくまで推論なので、説得力は低いのですが、こうした中でどうもこのあたりにはもうひとつ集落があったという話が出てきました。
「トゥクル元島」です。確かに井戸からもう少し西の方に、トゥクルアブという深い自然壕があった(戦時中は避難壕だった模様。現在は耕地整理で埋められてしまったらしい)ので、地理地名的にも整合性が出てきます。そしてこのトゥクル元島の番所が現在の県道235号のブリッサに向かう道すがらにあったらしいというのです(世界最南端の宮古島まもる君とアマガーの間あたり)。
【左】ウヤガー。への降り口。畑の中に隠れている。【右】ウヤガーの底。
ここで先ほどの東井で語った、「番所の東」の法則を引っ張り出します。
というのも、このトゥクル元島の番所があったとされる位置の東側の畑の中には、なんとウヤガー(親井)という降り井戸(ウリガー)があるのです。岩の裂け目のような井戸ですが、今も水が滲みています(夏場で水量が少ないようなのと、やや泥が堆積している感じがしました)。
役人が自分たちのことを「親」とは呼ばない(豊見親の親と意味は同じ)ので、このウヤガーの呼称は集落の人々が呼んでいた名前ではないだろうか。地理的条件からすればこの井戸を東井と呼べそうな上に、側草川、穴川、東川の3つの井戸がこの地域にあったことに明確になりそうな雰囲気が醸せます(宮国集落とトゥクル元島の関係は、隣の新里集落の元島が東西にふたつに分れているのと同じで、ふたつの元島でひとつの集落になる。双子のような存在だったのではないだろうか)。
以上、聞き込みのネタと文書史料、そして現地調査を元にして勝手な推理を披露させていただきました。ご清読ありがとうございました。

Posted by atalas at 12:00│Comments(0)
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