2017年05月16日
第135回 「下地恵雨仝メガ頌徳碑」

沖縄は5月13日に平年より4日遅れて梅雨入りもし、15日には45回目の復帰の日を迎えました。意味ありげに枕詞を並べていますが、今回ご紹介する石碑には特に関係はございません。それ以前に、もうタイトルからしてなんぞや?っといった雰囲気をわずかに醸し出しているのではないでしょうか。ある意味では出落ちだったりもしますが、とにもかくにも見つけてしまったので、思わず取り上げてしまったという。脊髄反射的なネタとなっています。
ひと言で書き表すなら、下地恵雨さんとその妻、メガさんを顕彰(頌徳-しょうとく-簡単に云うと顕彰の古い云い方)する石碑です。
今じゃ、「仝」(どう)なんて省略を意味する踊り字はあまり使いませんからね。せいぜいが佐々木さんの「々」や、いすゞ自動車の「ゝ(濁点は、ゞ)」あたりくらいではないでしよぅか。他にも「〵」「〃」「〱」「冂(中に点が入る)」などなど(一部、機種依存文字なので上手く表現出来ない場合があります)なんかもありますが、もう古文書的なモノの中くらいでしかお目にかかることもありません。
古い日本語はなにかと難しい言い回しや、強くて硬そうな熟語、はたまた印字したら潰れてしまいそうな画数の多い漢字なんかが、ふんだんに使われている一方で、こうした踊り字が省力化のために使われているあたり、世界一複雑な言語だと改めて実感させられます。しかも島の言葉にいたっては、ルーツにその古語が息づいていて、より難解さを複雑にしているところに、口語文の音から新たに勝手に漢字を当てはめて造語したりもしているので、それはもう並のパズル以上に謎解きが必要になったりします。けれど、それに気づけた閃きの楽しさはアハ体験にも勝るのですけどね。

この石碑を知った(気付いた)のは、たまたま国土地理院の地形図でその前山を眺めていたら、畑の中に石碑マークがぽつんと落ちていたことが発端でした。「こんなところに石碑?。はっ、そんなの知らないし、聞いたこともないけど~」っと云うのがきっかけでした。歴史ある前山の津波の石碑はマークすら落されていないのに、正体不明の謎の石碑が国土地理院の地図に記されているのですから、興味を引かないわけがない。ということで、早速、現地へ飛んでみました(島の面白いトコは、こうして気になった文献から現地をすぐチェックできるという身近な点だったりもします)。
一面のサトウキビが広がる与那覇集落の外れ。ちょうど刈り取られて次のキビ植えの準備が済んだ畑の中に石碑はありました。石碑は恐らく集落の方向を向いていると考えられ、道路側は石碑の背面になっていました(錆びたハウスの骨組みとかも置いてあったけど)。
その背面に書かれていたものは、石碑のいわれや人物のプロフィールなどではなく、建立者の名前がずらりと並んでいるだけでした。ぶっちゃけ、まったくといっていいほど石碑の情報が判りませんでした(帰宅後、ネットで名前を片っ端から検索するも、成果は得られず)。
ここまでで判明したことは、下地恵雨さんが1943年に、下地メガさんが1923年に亡くなっていること。それと1975年3月に石碑が建立されていることだけでした。
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けれど、ここではたと気づきました。そして納得をします。この下地夫妻が成し遂げたことを。それはずらりと並んだ建立者の配置にありました。下地恵雨・メガを頂点に、次段に10名、下段に19名もの名前が記されています。
そうなのです。一族ゆかりの人々の名前がずらりと刻まれていました。建立されたのが1975年ですから、恐らく現在はこの下に2~3段目の世代がいるのではないでしょうか。いったい総勢は何名になっているやら。さすが家族の絆の強い沖縄ならではといった石碑を知ることが出来ました。つまり、この下地恵雨・メガ夫妻が成し遂げたことは、下地家(下地家は他にもたくさんあるので)に繁栄をもたらした祖であるということなのではないでしょうか。
※石碑関係者の方、いらっしゃいましたら是非、建立の経緯など聞かせていただけたら嬉しいです。
Posted by atalas at 12:00│Comments(0)
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