2015年03月25日
第23回 「明和大津波之碑」
先週、宮古島で一番古い石碑はなんだろうという疑問符があがりました。そこで思いつく最も古そうな石碑を紹介してみたいと思います(兼、下地シリーズも続きます)。
下地地区の与那覇、マレアロッジ近くの前山の山中にある、明和の大津波で亡くなった方々を弔った石碑です。

ご存知の通り、1771年4月24日(明和八年三月十日)午前8時頃に、石垣島の近海で発生したマグニチュード7.4(推定)の地震により発生した大津波のことで、宮国・新里・友利・砂川の4ヶ村を中心に、池間・前里・伊良部・仲地・佐和田・仲筋・塩川・水納の8か村にもおよび、宮古の津波による死者は2548人にのぼりました。与那覇前浜方面に流れ着いた遺体を、前山(現在はうっそうとしたジャングルの低い丘)に合葬したものだそうです。
碑の素材は琉球石灰岩ではなく、珊瑚石であったことから碑面の文字はかなり劣化しかすれており、「乾隆三十六年三月十日大津波 宮国新里砂川」と刻まれているのがかろうじて読み取れます。
津波発生の1771年以降に建立されているとしても、明治以前の江戸時代なので200年以上前ということになります。
余談ですが、よく耳にするこの津波の呼称は「明和」とされていますが、石碑に刻まれている年号は、清(中国)の元号である「乾隆(けんりゅう~1771年・明和8年)」が使われており、小さな海洋通商国家である琉球王府が、中国の大きな影響をうけていたことを垣間見ることが出来ます。尚、「明和の大津波」という呼称は、牧野清氏が1968(昭和43)年に著した「八重山の明和大津波」以降、使われるようになったようです。
現在、石碑はヒビなどの補修がなされ、市の文化財となっています。
また、今回の記事タイトルは碑の正式な名称ではなく、あくまでも通称名になります。
【資料記事】
「明和大津波碑」市文化財指定へ(2011/04/16 宮古新報)
明和の大津波-その時宮古は-(あんちーかんちー2009年)
TSUNAMI 1771-続・明和の大津波-(あんちーかんちー2010年)
下地地区の与那覇、マレアロッジ近くの前山の山中にある、明和の大津波で亡くなった方々を弔った石碑です。

ご存知の通り、1771年4月24日(明和八年三月十日)午前8時頃に、石垣島の近海で発生したマグニチュード7.4(推定)の地震により発生した大津波のことで、宮国・新里・友利・砂川の4ヶ村を中心に、池間・前里・伊良部・仲地・佐和田・仲筋・塩川・水納の8か村にもおよび、宮古の津波による死者は2548人にのぼりました。与那覇前浜方面に流れ着いた遺体を、前山(現在はうっそうとしたジャングルの低い丘)に合葬したものだそうです。
碑の素材は琉球石灰岩ではなく、珊瑚石であったことから碑面の文字はかなり劣化しかすれており、「乾隆三十六年三月十日大津波 宮国新里砂川」と刻まれているのがかろうじて読み取れます。
津波発生の1771年以降に建立されているとしても、明治以前の江戸時代なので200年以上前ということになります。
余談ですが、よく耳にするこの津波の呼称は「明和」とされていますが、石碑に刻まれている年号は、清(中国)の元号である「乾隆(けんりゅう~1771年・明和8年)」が使われており、小さな海洋通商国家である琉球王府が、中国の大きな影響をうけていたことを垣間見ることが出来ます。尚、「明和の大津波」という呼称は、牧野清氏が1968(昭和43)年に著した「八重山の明和大津波」以降、使われるようになったようです。
現在、石碑はヒビなどの補修がなされ、市の文化財となっています。
また、今回の記事タイトルは碑の正式な名称ではなく、あくまでも通称名になります。
【資料記事】
「明和大津波碑」市文化財指定へ(2011/04/16 宮古新報)
明和の大津波-その時宮古は-(あんちーかんちー2009年)
TSUNAMI 1771-続・明和の大津波-(あんちーかんちー2010年)
連載企画 「んなま to んきゃーん」
なにかを記念したり、祈念したり、顕彰したり、感謝したりしている記念碑(石碑)。宮古島の各地にはそうした碑が無数に建立されています。
それはかつて、その地でなにかがあったことを記憶し、未来へ語り継ぐために、先人の叡智とともに記録されたモノリス。
そんな物言わぬ碑を通して今と昔を結び、島の歴史を紐解くきっかけになればとの思いから生まれた、島の碑-いしぶみ-を巡る連載企画です。
※毎週火曜更新予定 [モリヤダイスケ]
Posted by atalas at 10:20│Comments(0)
│んなま to んきゃーん