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2017年03月07日

第125回 「功徳を讃える」の碑

第125回 「功徳を讃える」の碑

今回は先週の道路改修碑から派生して、新城出身で業績を遺した人物、高里景親の功徳を讃える碑を巡ってみたいと思います。石碑は集落入口の道路改修碑から県道199号を進んたところにある、新城公民館の敷地内です。
第125回 「功徳を讃える」の碑
武骨な顕彰碑が多い中、高里景親の顕彰碑は見ての通りダイヤを台座に突き刺したような、少し斬新なデザインになっています。碑面には細かな字で顕彰文が書かれており、1968年5月31日(旧五月五日)に建立されたと書かれているように読めますが、劣化度合がそれなりに進んでおり、完璧に読み取ることは出来ません。
なので、「平良市史第八巻資料編6(考古・人物・補遺)」から、高里景親について紐解いてみたいと思います。
高里景親 たかさと・けいしん 1887(明治20)年1月3日~1961(昭和36)年7月25日。政治家。
砂川間切新城村に生まれる。若い頃から地域の指導者として頭角を現し、1912(明治45)年城辺村議会議員に初当選。その後1944(昭和19)年まで7期をつとめる。戦後は宮古郡会議員(4年)となる。約40年の政治畑にあって、城辺の行政、教育振興に貢献。
城辺村の政治家として長いこと活躍したことは7期も議員をつとめていたことからよく判ります(ただ、任期を1期4年で計算するとちょっと合わない)。尚、補足として、明治時代の生まれですが砂川間切となっているのは、特別町村制の施行で城辺村となるのが1908(明治41)年なので、それ以前はまだ間切が存在していたからです(人頭税の廃止も1903年なので、いかに旧慣温存されていたかがよく判る例のひとつといえます)。
また、戦後は沖縄戦によって県庁が機能しなくなり、米軍によって日本とはすでに切り離されてしまったため、宮古支庁に国と県の役割を代行することとなり、警察や司法や郵便の業務を管轄し、従来の国税県税がその財源にあてられました。
つまり、1947年に宮古民政府が設立し、1950年の宮古群島政府と移り変わるも、1952年に琉球民政府(1951年に前段階の琉球臨時中央政府が設立されている)が設立されるまで、形式上ではありますが一時的に宮古諸島はひとつの独立国といえる状態となっていました。
そして高里の就いたとある宮古郡会議員は、宮古民政府になる以前、まだ組織としては支庁としてのまま国や県の代行を行っていた、旧沖縄県宮古支庁の諮問機関として1946年に設立された宮古郡会だと思われます。この部分の高里についての詳細が不明なので、この資料だけでははっきりしませんが、宮古群島政府として形が整うまでの期間だったと思われます。「みやこの歴史 宮古島市史第一巻通史編」でも、この戦後の混乱期の苦悩や苦労が解説されており、とても興味深いです。
「難工事」の地名で知られる福里東から福嶺学区域に抜ける切通しの道路、新城集落への大道の開通事業に高里の果たした役割は大きい。
先週取り上げた「(新城道路改修)記念碑」と思われる部分にも触れていますが(高里は道路改修の発起人筆頭である)、道路改修は1915(大正4)年であり、ナンコージ坂のルート改修は返還期(1970年代)の施工であり、語源も小字名の皆粉地(んなくず)に由来しているのではないかと、ちょっとばかり異を唱えてしまったので、あまり深く言及はしないでおきます。
福嶺地区の指導者らと共に福嶺小学校の城辺小学校からの分離独立に尽力する。
地域の人材育成にも熱心で、後輩らを育てるため進学について親を説得するなど多くのエピソードを残す。
こちらは比嘉の偉人、比嘉財定の回で少し触れた城辺小学校からの分離のお話。城辺の小学校は福里から始まり、福嶺小学校は1902(明治35)年に保良分教場として設立されました。その後、1918(大正7)年に独立校となりました。別資料では1908(明治41)年との記述も見られますが、校歌の3番に「大正七年三月に 生まれいでたる わが校は 勇躍ばく進その如く 文化の道に名は高し」という歌詞があります。
また、高里の尽力によって輩出された人材は、後に町長や議員、医者などになっており、教育の重要性を強く意識していことが判ります。それというのも、高里の出自に起因していると思われます。
議員在任中は文字が読めないため独自の記号でメモをとったり、演説の中に「トニカク」の言葉を連発したことから、“トニカク主(しゅう)”の異名でも親しまれた。享年74歳。

議員をつとめた高里が、字を読むことが出来なかったというなんとも衝撃的なエピソードに驚きを隠せません。
高里を調べていて見つけたネタのひとつに、「ゴガツゴニチ」という沖縄らしい日付の読み方の集落行事があることを知りました。ただ、この行事の記事はネット上には2006(平成18)年だけしか発見することが出来なかったので、今も続けられているかははっきりしていません。

「ゴガツゴニチ」盛況/ 多彩な余興楽しむ 城辺新城(宮古毎日新聞)
記事のあらましを紹介しておくと、「城辺新城部落の恒例行事・通称「ゴガツゴニチ」(豊年祭と総合共進会)が旧暦五月五日に当たる31日、同部落公民館で開かれた。大勢の優良農家を表彰した後、舞台いっぱい踊りが披露された。ゴガツゴニチは、大正時代に沖縄本島を視察した故高里景親氏ら、同部落の村議会議員三人の発案が始まりとされ、今年は80回目の節目を迎えた」ということのようです。
2006年で80回目ということは、80年前は1926年、大正15年に始まった行事と思われますが、「ゴガツゴニチ」という呼称の豊年祭?は初めて耳にしました。大正という時代を考えると、新しいスタイル取り入れて集落をより発展させたいという思いに溢れていたのかもしれません。
そして今回紹介した高里を顕彰するこの碑が建立されたのは、1986年の旧暦の五月五日で、ちょうど40周年を過ぎた頃。きっと地域に寄り添った政治家であった高里を偲び(1961年に亡くなっている)、顕彰の気運が高まったのではないかと想像してみました。

最後に、この石碑がある新城公民館の敷地内にある石碑などもろもろをざっくり紹介しておきます・
まず、隣りに位置する市指定の有形民文化財「アギイス」から。先日の砂川神社の「玉石保存記念碑」はレプリカで、しかも力石は固定されていましたがこちらはホンモノです。実物を間近にするとなかなかの大きさにして重さがあるので、これをひょいと担いだ人たちの腕力(かいなぢから)には驚嘆せざるを得ません。
続いて顕彰碑の左にあるコンクリート製の「記念碑」とだけ書かれた石碑。裏面に寄付したとおぼしき名前などがあるようにも読めるのですが、何を記念したのかが判りません。1967年に建てていることから、新城公民館そのものの完成記念の石碑ではないかと思われます。
もうひとつ、こちらは2011(平成23)年に開催された「第1回生まり島大会記念」というもの。完全にばっして(忘れて)いましたが、宮古島市が音頭を取った宮古根のある人たちを集めて催されたイベント(2011年11月5日~7日)が全市的にありました。これは恐らく新城集落が独自に記念した石碑だと思われます。
第125回 「功徳を讃える」の碑第125回 「功徳を讃える」の碑第125回 「功徳を讃える」の碑
※記事中の引用は「平良市史第八巻資料編6(考古・人物・補遺)」からの抜粋。




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