2016年12月27日
第115回 「宮古島市平良図書館の歴史の碑」

2016年も残すところあと少しとなりましたが、師走の慌ただしさや騒がしさに押し流されることなく、「んなま to んきゃーん」はマイペースで今週もお届けいたしたいと思います。いや、たぶん、今週だけでなく、きっと来年も。。。
今週は久々に平良からのご紹介です。古くは「宮古琉米文化会館」として建設され、「平良市文化センター」、「平良市立図書館」、そして「宮古島市立平良図書館」と、さまざまに名前を変えながら続いて来た、みなさんにもとって思い出多き場所ではないでしょうか。

かつて宮古島市役所平良庁舎の隣りにあった、宮古琉米文化会館を偲ぶ碑です。もう、この画像を見ただけで色々と語りたい方もいるのではないでしょうか。
2011年3月。老朽化を理由にこの建物は取り壊され、市役所の手狭な駐車場の一部となってしまいました。それでは碑のほぼ全面を占めている、「宮古島市平良図書館の歴史」の碑文から振り返ってみましょう。
「宮古島市立平良図書館の礎」この琉米文化会館は琉球列島米政府によって、平良市(現宮古島市)の他に、那覇市、名護市、石川市(現うるま市)、石垣市、名瀬市(現鹿児島県奄美市)に設置されました。
宮古琉米文化会館は1952(昭和27)年9月14日に開館。琉球列島米政府情報教育部の一機関として設立される。開館当初木造瓦屋根の洋風の建物であったが、1959年サラ台風により倒壊。1961年4月鉄筋コンクリート2階建てに新築された。
主として図書館の機能と映写施設視聴覚機能を備えて行事部と図書部に分かれ、行事部は、幼児から小・中・高・一般・高齢者向けに遊戯、英会話教室、少年少女合唱団や絵画、書道、写真、生花、レコード観賞などのあらゆる社会教育行事を定期的に開催した。図書部は館内閲覧業務をはじめ、館外活動として巡回貸出文庫、1日移動図書館、巡回映写会を実施した。
1972年5月、日本復帰を期に琉米文化会館の施設はすべて旧平良市に無償譲渡され、1973年同施設は「平良市文化センター」に改称、図書館・公民館機能をもつ文化施設として運営される。1986年4月平良市中央公民館が完成、平良市文化センターは「平良市立図書館」に改称され、公共図書館として新たな活動を展開することになった。
2005年10月1日、宮古島5市町村合併により「宮古島市平良図書館」となる。
<参照:「宮古琉米文化会館のあゆみ」(『宮古研究第9号』修三2004年)>
宮古以外の琉米文化会館の行方を少し調べてみると、那覇の琉米会館は那覇市文化センターに改称され、現在は那覇市中央公民館となっているようです。現在の寄宮に移転する前は、あの崇元寺のあの石門の中にあったようなので、かなり驚きです。
名護は沖縄中央図書館名護分館としてスタートし、その後、改築などを経て名護博物館となり、現在も活用されています。
石垣は1951(昭和26)年11月、現在の大川保育所の場所に八重山琉米文化会館が落成し、翌年の4月に開館します。その後、1962(昭和37)年に、現在の石垣市立文化会館(石垣市教育委員会いきいき学び課)の場所へ移転しました。雰囲気は少し新しい感じがしますが、建物自体は宮古の琉米会館の雰囲気によく似ている気がします(参照年表)。
また、沖縄よりも早く返還された奄美の名瀬は、日米文化会館と改称された後、移転を幾度も繰り返しつつ、県立図書館奄美分館に併設されていたようです(文献史料)。
石川の琉米会館については、これまでほとんど情報が得られていませんでしたが、今回の掲載にあたって改めて調べてみると、かなり詳細が判って来ました。流れとしては名護と同じで、1947年に沖縄中央図書館石川分館として開館した後、1951年に琉米文化会館と改称されていることが判りました(名護と石川が改称移管された時、本館もまた改称されていますが、本館の所在地が当初は知念村にあり、その後、那覇へと移転している。また、沖縄中央図書館の本館が琉米文化会館に移行したことに伴い、首里分館が単独館に格上げされ、中央図書館となっているあたりも興味深いです。沖縄県立図書館の沿革)。
ただ、別途史料によると、石川琉米文化会館は、沖縄中央図書館石川分館の裏手に建設されたとあるのですが、その沖縄中央図書館石川分館が、現在のうるま市石川図書館(2階には石川歴史民族資料館があり、後の県立博物館となる、かつて石川市東恩納に設置された沖縄陳列館とも関係があるようです)であるならば、近年になって新しく建て替えられているようなので、石川琉米文化会館は現存していないことになります(現在の裏手には石川地区中央公民館が建っているので、こちらもこちらでちょっと怪しいような気もしますが確証はありません)。残念ながら、結局、執筆時点での真の所在地は未明のままです。


それにしても改めて見直してみると、思った以上に他の地区の琉米会館は運営形式が変わっても、建物は残されている事が判明しました。宮古琉米文化会館が永遠に失われてしまった今、どことなく悔しい想いが改めてこみ上げてきたのは自分だけでしょうか(宮古の琉米文化会館に関する資料も、とても少ないように思えます)。
運営先、施設名の変遷はあったものの、宮古島の文化の香りが漂う場所であったことは、最後の入居施設となった、宮古島市立平良図書館の時代も変わることはありませんでした。
そして今、図書館は新図書館(未来創造センター/旧県立宮古病院)完成までの仮設として、旧琉球政府宮古支庁(現・宮古島市平良第2庁舎。元沖縄県宮古支庁、元合併協議会など)へと移転しました。噂によるとこちらの建物。どうやら老朽化で解体されてしまった琉米文化会館よりも、ちょっとだけ古い建物なのだとか。だとしたら、老朽化とはいったいなんだったのでしょうか?。


最後は今は亡き旧琉米文化会館の跡地にある、かつてここが図書館であった名残を示す、マニアックなネタで閉めたいと思います。
市役所通り側。かつて移動図書館車を駐車していた敷地の角あたり。ここに、一本だけ短いサイズの引込用電信柱が敷地内に建っています。この電信柱の名前は「図書館引込」と記されているのです(ちなみに、庭園部脇には公共施設跡らしく、今も電話ボックスが残っています。こちらも希少価値が高まりつつあるので、さりげなく動向を注視しておきたいと思います)。
このささやかな発見した時、ちょっとだけ涙腺が緩んだことは秘密です。
それでは皆々様、良いお年をお迎えください。
【参考資料】
アメリカ占領下・沖縄の図書館
あんちーかんちー
島一番のハイカラ情報発信地~宮古琉米文化会館
「惜愛」 宮古島市立平良図書館閉館式
STAPANBIN CAFE Condiment Bar(写真)
図書館の自由に関する宣言法
近代遺産の記憶
平良第二庁舎/旧支庁舎
県公文書館アーカイブス
第二宮古島台風コラ被害状況 宮古総合庁舎(1966年9月7日撮影)
建物の再利用進まず/旧宮古支庁 商工会議所が移転先に熱意
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Posted by atalas at 12:00│Comments(0)
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