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2016年06月14日

第87回 「学び舎の碑」

第87回 「学び舎の碑」

今回紹介する石碑は、先週の金曜日の「島の本棚」で取り上げられた宮古南静園にあります。碑の表題は「学び舎の碑」。副題に「隔離された療養所の中に学び舎があったことを記す」とある通り、園内にあった学校を記録した石碑です。
第87回 「学び舎の碑」
まず、碑の下部にに記されている沿革を紹介します(碑文を元に読みやすく、資料より加筆修正しました)。
沿革
1935(昭和10)年
寺子屋式の八重菱学園を所内に開設。年齢を問わず、入所者が聖書の読み書きができることを目的に始まる(園内には入所者のための教会がある)。

1937(昭和12)年
八重菱学園を再編。義務教育を受けられなかった17歳未満の少年少女に勉学させることを目的として、生徒数23人で再出発。入所者の有識者3名が学園の教師として委嘱される。

1944(昭和19)年
戦時下で授業が中断。翌年、空襲により園舎消失する。
(戦局が切迫して来ると、南静園そのものが軍によって接収され、入所者は海岸沿いの洞穴で、不自由な避難生活を迫られる)

1947(昭和22)年
生徒8人をもって、八重菱学園が再開。

1952(昭和27)年
琉球政府の設立に伴い、八重菱学園は生徒数は21名ながらも琉球政府立として認可され、宮古南静園小中学校と校名を改称。

1954(昭和29)年
琉球政府立宮古稲沖小中学校と改称。

1972(昭和47)年
校名を琉球政府立那覇養護学校 稲沖分校と改称。5月1日、日本本土復帰に伴い、沖縄県立那覇養護学校 稲沖分校と改称。

1977(昭和52)年
沖縄県立宮古養護学校の設立に伴い、沖縄県立宮古養護学校 稲沖分校に改称。
しかし、在校生がゼロになり休校。

1981(昭和56)年
3月31日をもって閉校。稲沖小中学校45年の歴史に幕。
第87回 「学び舎の碑」
碑の裏面にはに南静園の年代ごとの概要図(学校を中心とした資料)と、稲沖小中学校の校歌が記されていました。改めて校歌を読んでみると、難解な表現が多く使われた歌詞になっていますが、ひとつひとつの言葉を吟味して読み解くと、ぎゅっと締めつけられる想いが詰まった校歌になっていると気づかされました。
稲沖小中学校校歌 (作詞/伊波義一 作曲/富浜定吉)

一、
流るるせせらぎ 園辺(そのべ)の緑
愛しみ満つる 清らの甍(いらか)
おゝわが学舎(まなびや) 稲沖ぞ
豪(くら)き世代に 先駆けの
自主を目標(ひかり)と 励(いそ)しむ吾等(われら)

二、
浮世の籬(まがき) いや高くとも
胸裡(むなぬち)秘(ひ)める 聖(ひじり)の御声(みこと)
おゝわが学友(とも)ある 稲沖ぞ
友情(なさけ)は交(か)よう 四海の浄火(きよめ)
愛と信(しん)とに 睦(むつ)まな吾等(われら)

三、
豊(たか)汐の香(か) 稲沖原で
いよよ修(おさ)めん 人成(ひとな)る業(わざ)を
おゝわが道標(しるべ)の 稲沖ぞ
百合の真白(ましろ)は 行手の灯(あかし)
描く未来ぞ いざ進まなん

[編集注]
豪き・・・・・・「くらき」にあたる読みがないが、「つよい」とか「きらびやか」という意味。
籬・・・・・・・・垣根のこと。
胸裡・・・・・・胸の内。
稲沖原・・・・南静園のある浜の字名は稲置原。崖の上のは別の名で構川と呼ぶ。
この稲沖小中学校校歌の作詞者は当時27歳の伊波義一(伊良部字前里添出身)。作曲者は当時24歳の富浜定吉(仲地出身)だそうです。
南静園 半世紀ぶりに校歌斉唱/宮高生の演奏に合わせ「宮古稲沖小中学校」卒業生ら
(宮古毎日20061127)

最後に、この碑の建立に協力された団体等についても紹介しておきたいと思います。
建立:2011(平成23)年5月10日 「学び舎の碑」を建てる会
協力:宮古南静園、宮古南静園入所者自治会、沖縄県立宮古特別支援学校、稲沖小中学校元教師、元稲沖小中学校児童生徒、財団法人沖縄県ゆうな協会、宮古南静園退所者有志、全医労南静園支部、ハンセン病と人権市民ネットワーク宮古、みやこあんなの会、他
南静園というとゲートから先へは、どことなく敷居が高く入りづらい感じがありますが、碑の立つ広場は燦々と日差しが降り注ぐ明るい芝生の広場があり、広々とした浜辺は美しく、遠く与那覇浜崎まで見渡せる、実はとても心地よい場所だったりします。

国立療養所宮古南静園
島の本棚 「ガイドブック宮古南静園」




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