2016年04月29日
島の小さな大きい放送局<下>

前回(上編コチラ)、宮古島に琉球放送(RBC)先島中継局という「放送局」が設置され、RBCの社史にも「台湾東海岸まで明瞭に受信することができる」と記されている、という話をしました。台湾、という言葉が出てきたところで、単に電波が届くだけなのか、それとも台湾を対象とした番組を作っていたのかでは話が大きく変わります。今回は、先島中継局が実際どのような活動をしていたのかを調べたいと思います。

【宮古島にあるRBCのサテライトスタジオ】

それとは別に、運営の実態を示す「放送局」「中継局」という言葉があります。こちらは一般的なイメージに近い、いわゆるラジオ局やテレビ局が「放送局」です。放送を行う中心的場所なので親局とも呼ばれます。親局から遠い電波が届きにくいエリアで、再度を電波を流すのが「中継局」。今回は後者、運営の実態としての「放送局」「中継局」という言葉を使っています。
言葉の通りであるならば、中継局は文字通り中継するだけの施設なのです。しかし、前回取り上げた「琉球放送十年誌」には、「アナウンサー一名と技術員二名を配置し先島向けのローカルニュースのほか気象や娯楽番組などを制作」と記されています。
そこで当時の新聞から運営の実態を明らかにします。国立国会図書館に所蔵されている宮古時事新報(現在の宮古新報)を中心に、開局1年前の1963年から移転した1985年までの記事や番組欄を調べました。「那覇で流す番組とは別に、宮古で独自に台湾までリスナーに含めた番組を制作していた」という話でもあれば面白いのですが。
開局1年前の1963年中は、特にめぼしい記事は見つかりません。施設建設の様子は恰好の記事になりそうですが、2面だけの新聞は紙面のほぼ半分は広告。記事は島外の重要な出来事が優先されている様子です。さらに1面はRBCとラジオ沖縄((ROK)の2局に加えて、文化放送(親子ラジオ)の番組欄、下半分には映画館3館の広告が載り、題字と見出しは窮屈そうです。初めて紙面が開局に触れるのは、1964年2月9日。記事ではなく、「琉球放送先島中継局開局記念大奉仕販売」というラジオ受信機販売の広告でした。
【伊良部島の牧山にある伊良部中継局(県設置)。塔の右側(見えていない)が宮古へのラジオ(FM波)の送信部で、棒状の金属製
アンテナがあります。見えているのは西側に設置された八重山向け(マウスonで分部拡大、クリックで大きな全体画像になります)】

その後4月16日付の紙面から、RBCの番組表は先島中継局のものに差し替えられます。早速、ニュースや今で言う情報番組の一部に「先島版」と追加されています。しかし、暫くするとラジオの番組欄は突然全て消滅してしまいます。替わりにスペースを埋めたのは映画上映案内の広告。聴きやすくなったラジオに客を取られ、映画館側が焦りを感じたのかもしれません。番組欄を追って調べるのも不可能となってしまいました。
しかし、情勢を踏まえると台湾向けに日本語放送を行うのは、恐らく不可能であったと思わざるを得ません。1945年の終戦後、日本に変わって台湾の新たな占領者となった国民政府は、矢継ぎ早に日本語使用の廃止と「国語」(中国語)教育の推進を打ち出し、また戒厳令を実施します。この時期、日本語を話すことは身の危険につながる場合すらありました。そのような状況下で、日本語放送が受け入れられるとは考えられないのです。
その反面、新聞を追うと台湾との関係を伺える記事が載っています。特にかつお漁では、不足するエサを台湾から輸入する試みがなされています。同時に、エサの輸入だけでなく冬季には台湾に漁業基地を置こうとする交渉も行われ、これに対し台湾側は「年間を通じて基地を置いて欲しい」旨の回答しています。この他にも、農林業の研修、平良市議会の視察、戦時中疎開した台湾への訪問団募集、はたまた台湾の中華航空と合弁で宮古八重山への航空会社を設立する動きなど、様々な形で台湾との関わりが存在しました。
RBCでも、奇しくも1964年の正月にスポンサーを招待して台湾視察旅行を行っています。コースを見ると観光旅行の意味合いが強そうですが、テレビ・ラジオ局を訪問し、行く先々で琉球放送の受信状況も確認しています。沖縄の企業22社が参加したこの視察について「十年誌」では、「琉球、台湾の親善、琉台貿易の開拓など一石三鳥的効果があった」としています。以上を踏まえると戦後のいわゆる密貿易時代の後、社会が落ち着きを取り戻した頃に、台湾との関係が再び深まった頃であったのでしょう。その中でラジオ局としても台湾まで電波を届けようとする意義が生まれたのではないでしょうか。例えば、出漁している漁船が日頃親しんでいる放送を聞けるように、というものです。
なおこの年、東京オリンピックが行われ、宮古島では開会式が行われる10月10日にテレビを見るために船で那覇へ行き、オリンピックをテレビ観戦するツアーが募集されています。今では信じられない話ですが、このツアー200人以上を集めたそうです。そう、社史等には記されていませんが、先島中継局開設もオリンピック開催に間に合わせたのかもしれません。
【赤と白に塗られた棒状のアンテナが嶺原時代の局舎(現在は南小、右下は三和自錬) 1983年「沖縄の地理-島の自然と生活-」より】

先島中継局の拡充を伝える記事が載った頃、新聞紙上を賑わしていた話題は先島へのテレビ局開設でした。「50年史」では1967年4月、中継局開設4周年を迎えての記念パーティや取材用か新車の配置を行ったと記されていますが、ここに至ってはそれらを伝える記事も存在しません。もはや関心はテレビに移っていたのでしょう。同年12月22日、OHK宮古放送局はいよいよ開局を迎えます。この日、宮古時事新報もこれまで例の無い6面体制で宮古初のテレビ開局を報じました。人々の喜びが伝わってくるようです。
1970年4月1日、前年のUHF回線開設を受けて那覇~先島中継局間に専用中継回線が設置、ようやく那覇からの同時放送もきれいに中継されるようになりました。専用回線設置を伝えるRBCの新聞広告は、「今年から音質の良いナイター中継が楽しめます」と結ばれています。この頃、OHKはまだテープ空輸による放送を行っていましたから、宮古島が初めて東京と直接放送回線で結ばれた日なのです。
テレビ放送の開始と前後して新聞紙面には本土企業の求人広告が増えます。高度経済成長に伴う「金の卵」を求めていた時代でした。この頃になると、台湾との関わりを伝える記事や広告も減り、観光ツアー懸賞の募集や琉台少年野球大会など、産業経済から親善交流へと変化しています。いよいよ本土復帰が現実的となりつつあった時代です。

もうひとつ、存在感が薄れたものがあります。記念の祝賀広告が載る日以外、新聞下段の紙面1/3のスペースに必ず掲載され、時には中段の半分まで占めてラジオ番組欄を追いやった映画館の広告が、ついに全く掲載されない日が来たのです。1974年5月15日のことでした。2日後の17日から復活するも、広告の大きさは従来の半分、紙面の1/6に留まりました。さらにその後、1980年のラジオ番組欄を見ると、宮古独自の番組どころか本土からネットされる番組が目立っています。
ラジオだけでなく、情報というのものは中央から地方へと流れる性質を持っています。逆方向に伝えられる情報もありますが、中央からの情報に比べればごく僅かです。
その中にあって先島中継局は、技術的な制約によるものとはいえ、単に電波を中継するだけに留まらず、独自のいわば「放送局」としての役割を果たしていました。開局時にはローカルに留まらず、台湾という言葉まで用いられてその存在を語られました。台湾までも、というのは夢に留まったのかもしれません。あるいは日々の放送の中で台湾へ出かけた島の人を慮ってのニュースや気象情報を伝えた事もあったのかもしれません。規模は小さくとも末端に留まらず広く電波を届けようとした当時の人々の心意気が、先島中継局を小さくも大きな「放送局」にしていたと思うのです。
【参考文献】
「琉球放送十年誌」(琉球放送 1965年)
「琉球放送50年史」(琉球放送 2005年)
「台湾の言語と文字」(菅野敦志 2012年)
「宮古時事新報」(1963~1968年発行分)
「宮古新報」(1968~1980年発行分)
「八重山毎日新聞」(1964年発行分)
※ラジオの法的技術的観点については、津幡岳弘氏にアドバイスを戴きました。記してお礼申し上げます。
島の小さな大きい放送局<上>
《ゲストライター紹介》
一柳 亮太
1978年生まれ。神奈川県川崎市出身。2001~2015年にかけて沖縄に在住。タイムス住宅新聞「まちの記憶」連載(城辺の「瑞福隧道」について書いたりしました)など、ライターとしての活動を行うも、現在は東京で会社員。興味関心は乗り物一般、ちょっと昔の出来事、台湾など
Posted by atalas at 12:00│Comments(0)
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