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2016年04月22日

島の小さな大きい放送局<上>

島の小さな大きい放送局<上>
第4金曜日なので、いつもなら「宮古かいまいくいまい」の掲載日ですが、全10話(前後編含み計11話)のファーストシーズンをやり終えて、今月は春休みをいただいています。
そこで金曜特集は年度初めのスペシャルウィークを開催。来週の5週目と合わせ、ゲストライターさんによる2週連続の上下編で「金曜特集」をお届けします。
ゲストライターは沖縄に縁も深く、ちょっと昔の出来事を鋭い考察で綴る一柳亮太さんによる、戦後沖縄を舞台にした黎明期の放送局のお話です。物語は宮古島を軸に、1枚の写真が偶然に交錯して動きだし、やがて遠く台湾へもおよびます。このなんとも気になる物語に、早速、“聞き耳”をたててみたいと思います。
島の小さな大きい放送局<上>
草生した道をさえぎるチェーンと、「この区域に立ち入りを禁ずる 琉球放送株式会社」という注意書き。建物ではなく「区域に」立ち入りを禁ずるとは、風景に似つかわしくない厳しい表記です。写真を見る限り特に何かがありそうもなく、轍こそ付いているものの頻繁に車が通っている雰囲気でもありません。那覇にある放送局が宮古島で果たして何をしているのか? たまたま見かけた1枚の写真が、今回の話のきっかけでした。

さて冒頭に挙げた写真は、久貝にある伊良部大橋のたもと付近で撮られたものです。思いつくキーワードでネット検索すると、いくつかのサイトに記述がありました。こちらの「送信塔見てあるき」によると、この道の先には、2005年3月まで琉球放送(以下、RBC)の中継局が置かれていたとのこと。現在は伊良部島へ移転しているそうですが、なるほど確かにラジオの中継局が置かれていたならば厳しい注意書きも分かります。建物だけでなく、周辺に入り込まれて余計なイタズラをされては困るのでしょう。これで写真の件は解決です。

しかし、参照したサイトには気になる一文がありました。「なお、未確認ですがRBC中波中継局は、1985年5月に一度移転しているようです」と。移転しているのならば、その元々どこにあったのか? その跡地は今どうなっているのか? という疑問が沸き起こります。そこで更に調べると、Wikipediaに「宮古島中継局」の項があり、「1964年4月に琉球放送が平良市久貝に先島ラジオ放送局として開局。先島のみならず台湾北部までカバーしていた」旨の記述がありました。

ここに来て中継局から記述が「放送局」に昇格しています。そして「台湾北部までカバー」という文言までも。がぜん興味が出てきました。Wikipediaの記述は、裏取りされていない根拠に乏しい情報も多々あり信用出来ない場合もあるのですが、だとしても「放送局」「台湾北部」という言葉に根拠があるのか、局舎の移転と合わせて調べる価値はありそうです。

やはりしっかりとした文献に当たって調べる必要があります。まずは定石通り社史から調べましょう。RBCは5年、10年、50年のタイミングで社史を出しています。幸いにも今住んでいる神奈川県の県立川崎図書館は、社史収集で有名な図書館。早速蔵書を検索すると、「琉球放送十年誌」と「琉球放送50年史」の所蔵がありました。早速訪ねて社史を調べた結果、まず局舎の位置がわかりました。1964年の開局時に平良市下里嶺原に置かれ、1985年に久貝へ移転、さらに2005年に伊良部島に移っています。社史に記述された変遷を中心にまとめた結果が次の年表です。なお「十年誌」「50年史」ともに、名称に若干揺れがあるものの、一貫して放送局ではなく「中継局」と表記しています。
島の小さな大きい放送局<上>
1950年に琉球の声放送が米国民政府によって始まり、8年後の1958年にはRBCが放送を開始します。更に6年後の1964年、先島中継局の開局と至ります。この間、RBCは米国民政府から琉球大学財団へ移管されたラジオ放送の設備を買収したり、テレビ放送を開始したりと毎年のように大きなトピックとなるような出来事が続くのですが、ここでは省きます。ただし、先島中継局の開局がテレビ放送開始よりも後であった点は着目すべきかもしれません。「十年誌」によると、先島中継局の開局は特に夜間に外来波の混信によって聴取困難であった宮古・八重山地区の受信環境を改善するため、とされていました。これは推測ですが、本島ではテレビ放送を始めたにも関わらず、宮古・八重山はラジオすら満足に聴けない状況を看過できなくなったのかもしれません。

理由はさておき、中継局の開局によって、宮古・八重山でもラジオがはっきりと聴けるようになったのは、住民にとって大きな喜びでした。「十年誌」には開局を祝って催された盛大な行事の様子が記されています。宮古の各市町村対抗歌合戦が開かれ、その様子を中継局が実況放送した他、パレードも行われました。また八重山でも記念式典が開かれ、宮古と八重山、両記念パーティー会場を無線で結んでの実況放送も行われました。そしてこのような文章も記されています。「先島中継局の誕生によって両先島はもちろん台湾東海岸まで琉球放送の電波は明瞭に受信することができる」本当にあったのです、「台湾」という言葉が。社史にはっきりと記されていたのです。
島の小さな大きい放送局<上>島の小さな大きい放送局<上>
【右】1970年代の地図に記された、琉球放送先島中継所の文字。市内近傍の小さな丘の上にあった(宮古島市総合博物館平成25・26年新年度新収蔵品展より)。【左】現在は南小学校となっており、痕跡はほぼない。尚、局舎は隣の市立南幼稚園との境目あたりにあったと推察される(写真右奥付近)。

1964年に開局したRBC先島中継局は、多くの期待とともに放送を開始しました。調査の結果、局舎の位置の変遷が判明し、また台湾までラジオの電波を届けようとしていた事実も分かりました。では、一部に見られる「放送局」という表記は果たして何を根拠としたものなのか。次回、先島中継局の活動を開局期の新聞とともに調べて行きたいと思います。

to be continued  


島の小さな大きい放送局<下>

《ゲストライター紹介》
 一柳 亮太
1978年生まれ。神奈川県川崎市出身。2001~2015年にかけて沖縄に在住。タイムス住宅新聞「まちの記憶」連載(城辺の「瑞福隧道」について書いたりしました)など、ライターとしての活動を行うも、現在は東京で会社員。興味関心は乗り物一般、ちょっと昔の出来事、台湾など。
(2016/04/22改補、2016/04/23改補)



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