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2019年04月23日

第230回 「腰原青年館」

第230回 「腰原青年館」

先週の「新豊の井戸」の石碑を語りながら、なんとも妙な着地点になったことから、今回はその関連として「腰原青年館」の碑を取りあげたいと思います。とはいえ、今回の紹介するブツは本来、石碑ではありません。現状の形態は記念の碑のようにしつらえられていますので、石碑として扱ってみることにしました。
第230回 「腰原青年館」
こちらの碑は平良下里の腰原コミュニティセンターの入口脇にあります。実のところ何度かここのコミセンは訪れているのですが、最近までまったくこれの存在に気づいていませんでした。腰原コミュニティーセンターは2011年6月の完成ですから、誠にお恥ずかし話です。

新聞の記事によると、
腰原コミュニティセンターは、国の戦後処理の一環として位置付けられた「旧日本軍飛行場用地補償事業」で建設。戦時中、腰原集落の土地一部が日本軍に強制接収されたことから、その補償として総事業費1億6000万円でコミュニティセンター、御嶽、井戸が整備された。
と、あります。
この時、整備された井戸は、コミセンからもう少し南に下った、降り井戸(ウリガー)の腰原井戸や、豊井戸を整備しています。
偶然ですが、当時、腰原の井戸を見に行っており、その時に撮影した様子がこちら。
第230回 「腰原青年館」第230回 「腰原青年館」
【左 2011年5月撮影の腰原の井戸】 【右 2011年4月撮影の冨名腰の井戸(シーサー給油所裏)】

【右 中ヌ御獄。共和マンション裏の細道にあります】
第230回 「腰原青年館」この時、コミセンのことにも気づいていれば良かったのですがね・・・。
代わりといってはなんですが、同時期に隣の字の冨名腰も同様の降り井戸を整備していまして、当時の井戸を撮影していたので、こちらもしれっと紹介しておきます。
今はどちらも一定の時期を除き、ほぼ常にもしゃもしゃと茂っていますので、ここまでまるっとマルガリータなのはなかなかないかと思われます。

また、整備した御嶽については、特に言及されていませんが、恐らく集落の中央にありも祭祀でも一番重要な役割を担っていた、中ヌ御獄とみられます。現地は今、こんな感じです。
この立派なガジュマル(根しか写ってないけど)がもし折れていなかったら、どれだけ素敵なことだったことでしょう。残念でなりません。

と、ひとりごちていたら、なんと落成祝いの記事が出て来てしまった。
そちらによると、整備したのは中ヌ御嶽ではなく、下里家具(元・宮古製糖平良事務所)の裏にあるトゥーミ御嶽への道路を整備したとありました(確かに今はアスファルトの道路が作られている)。
 腰原公民館落成祝う─旧軍飛行場用地補償が完了(宮古新報 2011年6月11日)
第230回 「腰原青年館」第230回 「腰原青年館」
現在、コミセンが建っている場所には、1950年12月26日に竣工した「腰原公民館」がありました。それが今回の碑の元です。コミセンの建設が決定したことから、2008年には休眠状態だった自治会組織が20年ぶりに活動が再開。また、旧・腰原公民館の取り壊しを前に、お別れ会を開いたという逸話も泣かせます。
宮古島にある公民館の中でも古い建物の一つ。 鉄筋はレールなどを使用し、 材料のバラスは住民が負担したという。 役員らは古くなった公民館を見ながら利用した当時を懐かしそうに振り返った
戦後、モノのない時代なので、鉄筋の代替えというイメージは判る話なのですが、レールというところがどうしても引っかかります。
大正期に導入され戦前、戦中あたりまで沖縄製糖下地工場に向かって、島内各地からキビを運搬するトロッコ用のレールが50キロ近く張り巡らされていました。戦争中にこのレールは資材や壕掘りの工具として使われました。また、戦後はトラックの普及が始まることから、島の鉄路は人知れず消えてしまったので、その廃材ではないかと思われるのですが、このタイミングでどの程度まで線路が残っていたのかという点も気になります。尚、レールと云っても今どきの電車が走るようなゴツイいものではなく、無動力(人力または馬曳き)でナローサイズのトロッコ用なので、細く短い簡易的なレールでした。
第230回 「腰原青年館」第230回 「腰原青年館」
【沖縄製糖工場のそばに辛うじて残されていたレールと、レールを使ったフェンスの支柱】

記事中でも、しれっと「腰原公民館」と云い切ってしまっていますが、碑をよーくみると、「腰原青年館」と書かれています。かすれ過ぎているのではっきりと見えませんが、ローマ字の読みは「KOSIHARA SEINENKAN」と書いてあるようです。
よく耳にする“こしばる”ではなく、“こしはら”と呼んでいたのでしようか?。島ことば読みなら“くすばる”ではないかとも思うのですが、こちらもまた謎として気になります。どなたか詳しい方ご教示下さい。

上手くまとまらないので、最後は強引に数撃って当たれ方式で〆てみたいと思います。
こうした旧公民館、青年館は今やほどんど残っていません。軒並み建て替えられているか、取り壊されてしまっています。そんな希少な建物をいくつかご紹介しておきます。まずは、下里添の花切にある下南公民館の道向かいに、ほぼ廃墟ですが当時の面影が残る「青年会場」がひっそりと残っています(軍の駐屯歴があることから、おそらく島で唯一の戦前に建てられた公民館系の施設と考えられます。貴重な文化遺産として保存保護して欲しい)。
決して大きくな建物でありませんが、スラブヤーで飾り屋根がついたちょっと洒落た雰囲気が漂う、地盛の旧公民館。民間に払い下げられたのか、公民館の面影を残したまま扉や窓などがリニューアルされ、今も使われていたりします(屋根にしっかりとと痕跡が残っている)。
第230回 「腰原青年館」第230回 「腰原青年館」
【左 戦前の公民館施設とみられる、下南の青年館】 【右 地盛の旧公民館の建物に残る痕跡】

また、戦後作りの“腰原公民館”のようなローマ字表記が残ったスタイルは、伊良部仲地の旧仲地公民館が現役としては唯一ではないでしょうか。もっとも、現在は公民館としての役目は終え、拝所として利用されています。
第230回 「腰原青年館」第230回 「腰原青年館」
【もう、フォントが格好良すぎる仲地公民館】

あと、古そうなのは、払い下げ済みになっている上野野原にある、元ナベヤマ公民館や、宮国の旧大嶺公民館などが思い起こされました。新里の長立や東青原、上野の側嶺などは、公民館そのものが取り壊され、自治会活動が低下しているので、新たな公民館が作られないというスタイルも出てきており、古い公民館(旧施設)情報などもあればぜひぜひ教えてください。

【参考資料】
集落(スマ)を歩く】 腰原    (宮古新報 2012年)





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