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2019年04月02日

第227回 「字西原創立紀念碑」

第227回 「字西原創立紀念碑」

先週の「砂川恵隆頌徳碑」で西原村の村建てに関わった人物を紹介したからには、やはり西原につなげなくてはね。っというとで、旧公民館前に建つ「字西原創立紀念碑」を今回は紹介してみたいと思います。
第227回 「字西原創立紀念碑」第227回 「字西原創立紀念碑」
西原集落の村建ては城辺の福里と並んで、「(琉球王府時代)最後の村建て」と呼ばれる1874年。明治7年8月吉日に行われます。池間島の人口が1800人を越えていたことから、宮古島の横竹に新村を作るようにと指示され、池間島から73戸、佐良浜から15戸、横竹から2戸の計90戸480余名によって、現在の西原の集落が村建てがなされました。
「字西原創立紀念碑」は1934(昭和34)年、村建て60周年あたりに建立されたようです(特に周年の文字は見当たらない)。しかし、経年劣化により碑の文字が半ば剥がれ落ちてしまい、完全には読めなくなっています。ところが、資料として活用した仲宗根將二氏の「近代宮古の人と石碑」(1994年 私家版)で紹介されている写真には、まだ碑の文字がきちんと読める状態にあり、ちょっと感動するのでした。
第227回 「字西原創立紀念碑」
【「近代宮古の人と石碑」 仲宗根將二 1994年 私家版より】

しかし、ここでもうひとつ気になることを発見してしまった。
現場を知っている方はもうお気づきかと思いますが、西原集落は1974(昭和49)年に村建て100年を迎え、石碑をもうひとつ建立しているのです(旧公民館前正面左側)。けれど、自分が知っている「西原創立百周年記念碑」と、仲宗根氏の「近代宮古の人と石碑」で紹介されている百周年の石碑の印象がまったく違うのです。残念ながら本は印刷がいまひとつで、状態をはっきりと確認することは出来ないのですが、明らかに縦型の碑に縦書きで書かれているのです(本文にも石碑はふたつとも3メートルを超す大きさと書かれている)。
しかし、現実の石碑は横書きなのです。考えてみると100周年からすでに45年が経過していますが、石材のトラバーチンの色がどことなく新しいような気もするのです。なにかヒントになるかもしれないので、碑の裏に書かれている解説を確認して見ましょう(実は本編の「字西原創立紀念碑」の裏にもなにかが書いてあるのですが、なにが書いてあるのかまたっく読み取れないほど劣化している)。
顕  彰
当西原の字の発祥は、明治六年旧十月頃、琉球王庁[ママ]より、富川親方一行が来島し、人口過密な池間島より分村を命令し、当時の在番、板良敷、砂川、下地、平良、各四親雲上の陳情により、明治七年旧八月吉日に当地に池間島より七十三戸、佐良浜より十五戸、横竹より二戸、計九十戸四百八十余名を移住分村せしめたことに始まる。
以来、住民は半農半漁を生業とし過酷な人頭税にあえぎながら、営々としてアララガマ精神を発揮し部落発展の基盤を築き、今日の隆盛をみたのである。
ここに先祖の開拓精神と御苦労に対して深長なる感謝を捧げ併せて創立百周年の大祭にあたり永遠にその偉業を顕彰するものである。
昭和四十九年十月一日 旧八月十六日

以下、西原創立百周年記念事業期成会のみなさんの名前がずらりと並びますが割愛しました。
※文中に[ママ]とあるのは、碑の文章そのままです。尚、読みやすさを考慮して一部に句点を補完しました。

気になる記述としては、在番が4名と書かれている点です(在番は首里から派遣される高級役人の士族)。1629年にスタートした在番制度ですが、最大でも在番は3名しか置かれたことがありません(3人制は1647年以降)。しかも、1678年からは組織改革され、在番ひとり、筆者(在番の補佐役)ふたりと変更になっています。
記録(宮古島市通史「みやこの歴史」)を見てみると、村建ての1874年には板良敷親雲上という名があり、おそらくこの方がトップで、石碑に記されている在番とみられます。また、玉寄筑登之親雲上、松川筑登之親雲上という、若干、位(くらい)の落ちるふたりが筆者として派遣されていたようです。
一方、残った砂川、下地、平良は在番ではなく、おそらく各間切の頭職(在番制施行以降、宮古人が就ける最高職)と思われます(役職としては首里大屋子)ので、石碑の文言を作成した方の誤認誤用があるみられました。
第227回 「字西原創立紀念碑」
ちなみに、村建ての前年に来島している富川親方は、宮古八重山を事細かく視察して廻り、「富川親方宮古島規摸帳」(八重山規摸帳というのある)という詳細な報告書を書き記し、島民に対して指導を施していたりします。この富川親方は琉球王府最後の三司官となり、琉球処分の際に発生した、先島分割問題にも大きくかかわってくる人物だったりします(県庁顧問を辞して、清国に亡命した)。

西原村の命名についてのエピソードもありました。そもそも西原集落は池間島から枝分かれして分村することから、当初は「池枝村」となる予定だったらしいのですが、富川親方の随員として同行していた西原親雲上が、記念に自分の名前をつけて欲しいと懇望され、村名が西原となったのだそうです。

個人的にこのエピソードは驚きでした。というのも以前、誰かに薀蓄を垂れられて知った西原の命名は、平良のニス(島の言葉で北のこと)の原に作られた集落だから、「ニスハラ」転じて「ニシハラ」になったと。
わずかに知識のついた今、考えてみると宮古では「原」の読みは西日本系の「バル」と読むから、方言説であるなら「ニスバル」と呼ばれていなくてはおかしいので、この説は怪しく西原親雲上説が正しそうです。
第227回 「字西原創立紀念碑」
自己解決気味ですが、自分が聴いた方言説は、どうも「西原」ではなく、地域名である「西辺(しにべ)」の語源のことのように思えてきました。現在の西辺は西原、大浦、福山(西原の東部。山川集落などいくつかあった散村を後にまとめた)の3集落の地域を呼ぶ時に使われています(西辺小学校・中学校など。宮原のように西辺学区という考えもあるが)。しかし、もっと昔には、島尻や狩俣をも含んだエリアまでを西辺と呼んでいました(狩俣小学校は初代の西辺小学校だった)。
つまり、これは平良の「北の方」という方言が転訛したもので、前述したように北は方言で「ニス」、そして「辺」は「~の方」を意味しますので、これが「西辺」の語源になるようです。
余談ですが、城辺の「辺」も同様に「~方」という意味ではありますが、「城」の意味の解釈が諸説あってはっきりしません。ただ、宮古には存在していない、本島のような「お城」のことでないことは確かだと思われます(城を山と取る向きもありますが、宮古で山は森のことなので少し違う気がする)。方言を紐解くと、「後ろ」を意味する「グス」とか、丘脈を「越す」の「クス」といった言葉から、山を越えた後ろの方というような語源イメージを抱きます。どちらも当時から政治経済の中心であった平良からの見た目線で名づけられているようです。
第227回 「字西原創立紀念碑」
石碑の謎が解けないかと、公民館まわりをウロウロしてみましたが、建屋の脇に立派な拝所(トゥクル神かな?)があったのにびっくりしました(佐良浜でよく見かける、大きな盛り砂もあった)。
さらに、ウロウロしてみると「字西原創立紀念碑」のすぐ脇。雑草が茂った一角に謎の石がいくつか埋もれていました。どことなく石の表面に文字があるようにも見えますが判断はつきかねます。もしかしたらこれが縦書きの百周年記念碑なのかもしれません。あなたにはどう見えますか?

追伸。
先週の砂川恵隆は、役職として村の管理者(地頭代)クラスなので、今回のストーリーには絡んできませんでしたが、おそらく実務担当としては活躍していたのではないでしょうか。して、今気づいたのですが、先週も触れていますが砂川恵隆は池間、伊良部、松原の主を歴任していますが、面白いことに池間は平良間切、伊良部は下地間切、松原は砂川間切と、すべての間切を移動しています。




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