2019年03月26日
第226回 「砂川恵隆頌徳碑」

ひさびさにタイトルは石碑らしい石碑の紹介となりました。しかも、石碑の種別は、ちょっと時代を感じさせる頌徳碑(しょうとくひ)。これは簡単にいうと、個人の功績や善行などを讃え、世の中に広く知らしめるために建てられる石碑である顕彰碑(けんしょうひ)の古い呼び方で、戦前頃まで使われていました(内容はことなりますが、言葉的には忠魂碑と慰霊碑のような関係性にあります)。
そんな今回の石碑は、ひょんなことから見つけた、いわば砂川恵隆氏を讃える石碑です。さてどんな内容になりますやら。。。
石碑の場所ですが、平良大字東仲宗根字赤宇下(アコースタ)。内会は“旭”になります。
といってもまずは伝わらないと思うので、少し具体的に表現してみると、仲宗根スーパーから大和井方面に向かって県道83号線を東進。幅員の拡幅工事を行っている左カーブ。県営西中団地と八千代バス本社前の手前にある、三角州のように道路に囲まれたところを右折(南)へ曲がってすぐの住宅のお隣にある拝所(道路には背を向けているので判りづらい)の敷地内にあります。なんか余計判り辛くなりました?。なら、巻末に掲載してある地図を参照してください。っと、逃げておきたいとこですが、ちょっとぱかり昔の画像を。

えー、こちらが今は亡き「ゴールデンウイスキー」の看板の画像です。
壁に直接描かれた沖縄特有の看板広告で、三角州にあった建物の壁に描かれていたものです。この時点ですでによく知らない商品の広告であったことと、場所的になんとなくそのうち消えてしまいそうだと思って撮っておいたものです。実際、数年後にはその通りに拡幅工事が始まり、現在は建物ごと綺麗さっぱり消えてしまいました。
このゴールデンウイスキー。調べてみるとなんと県産品だったようです。那覇市繁多川にあったといわれる琉球酒造というところが作っていた洋酒らしい。
こちらのサイトによると「新世代・ゴールデンウイスキー」と記されていたようです(グタβ)。
ちなみに、昭和44年のデパート大越(のちの沖縄三越)酒類価格一覧(沖縄泡盛新聞)では、ゴールデンウイスキーは化粧箱入りで1.80ドルだったようです。かなりの安価です(確か税金の比率が大きく違ったはず)。
結果として、実物の写真をネットでは探せなかったのですが、せめてラベルくらいは眺めてみたいものです。どなたかお持ちの方とかいませんでしょうか!。
のっけから横道に逸れてしまいた。すみません。改めて石碑です。砂川恵隆頌徳碑です。
こちらは住宅隣りの拝所「アラヤートゥクル」の敷地内にあります。平良市史御嶽編によると、アラヤートゥクルとは屋号「アラヤー」のトゥクル神(処神≒屋敷神)のことで、砂川恵隆の屋号がアラヤーであることか、かつて屋敷にあったトゥクル神だけが残って拝所化されたもののようです。砂川恵隆の誕生日にあたる、旧暦の9月9日にはアラヤー一門が集って御願をしているそうてす(平良市史御嶽編)。
石碑はこのアラヤートゥクルの隣に建立されており、石碑の表には「砂川恵隆頌徳碑」の上に、「池間ノ主」「伊良部ノ主」「松原ノ主」と3つも~主が書かれています。こんなの見たことない。どーゆーことなのだろうと、石碑の裏を見て見ると、しっかり解説がされていました。
砂川恵隆ハ文政二年十月六日白川氏砂川恵常ノ宗子ニ生し、恵睦、渡久山寛得。恵任、恵祥、メガ、メガ、恵信、カニメガノ五男三女ノ父となり、明治二十六年十月十五日、七十五才デ卒ス。頌徳碑は戦前のものと前述しましたが、がっつり戦後の建立でしたね。けど、どーみても、この文言の書き方は戦前に教育を受けた人物によるもののような雰囲気がします。などと、想像してみたもの、恵隆は1893(明治26)年に75歳で亡くなっていて、建碑されたのが1965(昭和40)年だから、例えば5男恵信がこの時90歳だったとしても、恵隆が56歳の時の子で、1875(明治8)年生まれの計算になります。また、恵隆の生年を中国歴(清歴では嘉慶24年にあたる)ではなく、和暦の文政で表記しているあたりも、琉球処分(1879年に沖縄県となる)後にあたるというのも、関係しているかもしれません。あくまで計算上からの想像ですが、ちよっと気になる部分ではあります。
ソノ才腕ヲミトメラレテ、池間、伊良部、松原ノ主を歴任スル。ソノ間、池間佐良浜カラ西原ヘノ分村、造林、畑地防風林ノ造成、堆肥ヅクリヲトクレイシテ生産ノ増強ヲハカル等スハラシイ制作ト英断ヲモッテ民生ノフクシ向上ニツクシ住民カラケイボサレタ。ココニソノ徳ヲシノビ永ク後世ニ伝エルタメ従来ノ拝所ニオ宮ヲ建テ境内ヲ整備シテ此ノ碑ヲ建立スル。
昭和四十年旧九月九日 氏子一同
さて、改めて碑文への突っ込み(思いつき)をしておくことにします。まず、「宗子ニ生し」の“し”は碑文の通り。カタカナ書きの碑文の中で、なぜかここだけひらがなでした。
5男3女でメガ、メガ、カニメガと連打されているとこですね。娘にはよくある系ですが、せめて次女は変えてあげて欲しかった。
特筆したい部分としては、三字の主を勤めたことですね。字のトップの行政官ですから、簡単にいうと村長のような人ってとこでしょうか(勿論、任命制なので雇われ村長ですが)。そして中でも西原集落の村建て関わっていた人物であったことは、なかなかのトピックスでした。
まさにこの石碑は人に歴史ありを示す頌徳碑そのものですが、この方の住んでいたこの地は、東仲宗根赤宇下(アコースタ)といいます。字は異なりますが、これはアコウ(赤榕)の木の下(南かな?)という意味でしょうか。すぐそばに森の茂る高台があり、そこには保里城址(保里御嶽≒フサティウタキ)がある場所。そこにはアコウの木があるのかもしれません。
土地の名をたどるのもまた、当然のごとくそこには歴史があります。かつて宮古の集落のはじまりは巣嶺(スニ)だったといいます。巣≒棲む処の意味。嶺≒地形的に高い丘のこと。“宗根”の語源といわれており、保里の台地は最初の集落だったといわれています。この巣嶺≒宗根が繁栄して北宗根(後の荷川取≒んきゃどら)、南宗根(後の下里。下は南の意味もある≒新里とも呼ばれた)、中宗根(中→仲)と集落は拡大して行きます。当時の中心地であった仲宗根はさら発展し、東西に分割されて現在の西仲宗根と東仲宗根になりました(下里の北半分をニス里として分割したのが、後の西里となる。~添は、それそれの添村としてのいわゆる飛び地耕作地が、後に割譲された)。
そんなちょっと濃い場所ですから、やっぱりなにかと面白いです。うまくまとめようと思って語ってみましたが、イマイチまとまらないので、情報を入れて終わりにしておきます。
この拝所の向かい側は、道路拡張工事による発掘調査が少し前まで行われていました。
珍しい碗型土器出土/保里遺跡(宮古毎日新聞 2018年12月25日)
説明会に参加された方のBlog
宮古島は平良西仲宗根「保里(ふさてぃ)遺跡」発掘調査説明会に参加してきました。
Posted by atalas at 12:00│Comments(0)
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