2019年01月29日
第218回 「(下地小)創立百周年碑」

先々週、先週と、下地中学校の石碑を取り上げてきましたが、今週はその中学校の道向かいの宮古島市立下地小学校にある記念碑を取り上げ見たいと思います。学校系は校内にさまざまな系統の碑がたくさんあるので、石碑ハンターとして嬉しい半面、学内関係者だけで完結して碑も多く、味付けが微妙なのでなかなかに難しい面があったりします。
下地小学校に関しては、かつて第20回「下地小学校発祥之地」で取り上げていますので、校歴はそちらをご参照いただきたいのですが、抜粋しますと1886(明治19)年に与那覇午方里の地で開校し、1905(明治38)年に現在の洲鎌タケアラへと移転します。戦中は歩兵第三聯隊(第104回「歩兵第三聯隊戦没者慰霊碑」 本部は野原)が駐屯していました。計算上、今年で開校133年目となります。

【左 1945頃の空中写真(米軍撮影) 校舎の位置や向きが今とは異なっている】 【右 現在の“下小”校門前】
今回ご紹介する碑は、そんな下地小学校の創立百年の記念碑です。開校は1886年ですから、当然、建碑は1986(昭和61年11月13日建立)年となっています。
前述した「下地小学校発祥之地」の回に出て来る、今は台座しか残されていない「失われた二宮尊徳像」は、1936(昭和11)年の創立50周年式典で建立されたものです(顛末についてはコチラ)。

【かつて二宮尊徳像が乗っていた台座だけが、校庭の隅にぽつんと今は残っています】
現行の校門のすぐ目の前に、尖った白い謎っぽいオブジォェがあります。こちらは創立85周年を記念して建てられた「教育の塔」と云うもののようです。ただ、建立は1973年(昭和48年3月21日)年なので少しずれた87周年目になっています。
碑の背面に建立の情報が記されているのですが、どう云う訳か本体と同様に白く塗りつぶされています。文調が「下地町の将来の発展は~」とあるからでしょうか。この改変は少し謎ですが、碑についての重要な情報もいくつか記されてしました。
寄付者のトップに「東急開発グループ」とありました。与那覇前浜に建つ、東急リゾート宮古島ホテル(現・宮古島東急ホテル&リゾーツ)の開業は1984(昭和59)年ですから、すでにこの時点で東急がやってくることは決定事項的だったようです。
また、この塔のデザインですが、「設計者 琉大教授 宮城健盛」とありました。この方を検索してみると、琉球大学美術工芸科教授でありながら画家でもあったようです。
沖縄県立博物館美術館 作家紹介 宮城健盛
琉球文化アーカイブ 宮城健盛 ●みやぎ けんせい

【左 85周年の教育の塔】 【中 95周年の発祥の地(与那覇)】 【右 120周年の健児の意気】
これに続くのが、ここまで繰り返し何度も出てきている「下地小学校発祥之地」です。こちらの建立場所は校内ではありませんが、創立95年を記念して建立されています。
最新の周年記念碑は「教育の塔」の裏手にある「下地健児の意気」の碑。こちらは2006年に建立された創立120周年の碑です(2007年3月22日建立)。これまでの単なる記念碑ではなく、学内の各クラブが大きな大会などで出場したことを記念して、プレートを設置するスタイルの石碑です。これはアイデアにあふれた石碑になっています。現在は10枚のプレートがはめ込まれており、あと2枚でいっぱいになりそうに見えますが、実は裏側にも同様のスペースが残っているので当面は問題なさそうです。
オマケとして他の周年碑を紹介しましたが、ちょっとオマケの分量ではなかったですね。まあ、周年モノなのでいくつもあるのは仕方ないことです。とりわけ大きな区切りである100周年の碑へ戻りましょう。なにせ、いろいろな意味も含めてなかなか注目の碑なので。
【左 「たくましい子ども」?「たくましく明るい子ども」?】 【右 普陀山の観音菩薩は女神なのだろうか?】
それではまず、碑の全景を改めてよく見てください。特に「創立百周年」と書かれた上の碑文に注目です。
「平和の女神に 抱かれて やさしく たくましい 子ども」
とありますが、最後の2行。なんか変です。
「たくましい 子ども」ではなく、「たくましく 明るい子ども」となっていたものを書き直し、いえ、彫り直しています。どうやらやっちまったようです。
そして碑のセンタートップに君臨する謎の「普陀山」の文字と仏像(しかも、碑文では女神と詠っている。そして仏様なら性差もないはず)。調べてみると、普陀山は上海沖の舟山諸島に実在する山で、中国四大仏教名山として観音菩薩が祀られている霊場だそうな。なので、この仏像は観音菩薩らしい。ざっくりとした大和的な解釈だと、観音菩薩の浄土は補陀落(ふだらく)だから、熊野信仰とかでしょうか。建立者の趣味嗜好なのでしょうか、関連については謎です。
また、裏面には校歌の一番が記されています。
仰げば高し 野原岳 清き眺めの 与那覇湾まるで「校歌ジェネレーター」で作ったかとみまがうほどに盛り込まれていて、ついつい唸ってしまいました(野原岳が歌詞にあるあたり、上野村分村以前に作られていることが良く判ります)。
つきせぬ流れの 崎田川 その名は高し 下地校
まあ、それはもうそれとして。
ここからいよいよネタを入れてゆきます。


【「みやこ時評」1986年12月号 clickで拡大します】
かつて宮古島にあった伝説の古本屋「麻姑山書房」で入手した、月刊「みやこ時評」の1986(昭和61)年12号です。
いわゆるミニコミ誌で、政治経済から、島のうわさ話や釣りのネタまで、軟膏とりまぜたなんでもありの同人系といった感じ(煽り文句にも“宮古の総合情報誌”と書かれています)。
(閉鎖)不思議で奇妙な森の中の本屋さん「麻姑山書房」【宮古島】
宮古島から麻姑山書房がやってきた
ネタは表紙にも書かれていますが、『阪急 石嶺が故郷に碑を贈る』とある奴です。
この見出し、石碑ハンター(自称)としては黙っておれませんからね。
ちなみに、この阪急とは「阪急プレーブス」のことであり、石嶺とは「石嶺和彦」選手のことです。それだけではちょっと説明不足な気もするで、簡単にまとめておきます。
阪急は関西の私鉄(阪急電車)で、かつて西宮球場をホームグラウンドにして、プロ野球チームを経営していました。後のオリックスブルーウェーブ(現・オリックスバファローズ)となる球団です。当時は、近鉄バファローズ(オリックスと2004年に合併)、南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)とともに、関西の私鉄がパリーグに所属するプロ野球チームをそれぞれ所有していました(阪神タイガースも私鉄系ですが、セリーグ所属)。この頃の阪急は西本幸雄が鍛え上げたチームを上田利治監督が率いて、1975年から日本シリーズ3連覇(パリーグは4連覇)して黄金時代を築いた。ちなみにこの時、西本はライバル近鉄の監督に就任して、熱パをもりあげていました。
石嶺和彦選手(当時)は、豊見城高校(監督は栽弘義)で長打力のある捕手として活躍し甲子園にも出場します(1977~78年の春夏の4度出場)。そして1978年にドラフト2位で阪急に指名されて入団します。膝の怪我などもあって捕手としては思うようなプレーは出来ませんでしたが、打撃を買われて外野手へとコンバートされます。しかし、外野の選手層の厚さやチームの選手起用などもあって、指名代打(DH)となることも多かったようですが、最盛期の石嶺は当時の日本記録だった56試合連続出塁や、パリーグ史上5人目の6試合連続本塁打(タイ記録)などの記録を叩きだしています。
チームは1989年に阪急からオリックスへと身売りされることになりますが、ブーマーに藤井康雄、松永浩美に加え、南海から移籍した門田も加わった、破壊力のある打線から“ブルーサンダー打線”の一翼を石嶺も担います。
石嶺はその後、FA制度がスタートした1994年にFAを行使して阪神へ移籍しましたが、1996年に引退。解説者や日本や韓国のプロ野球のコーチをつとめました。2016年からは沖縄の社会人野球チーム「エナジック硬式野球部」の監督に就任しました。
エナジック硬式野球部
【創立百周年の碑。裏面の校歌と奉建者の一覧】
と、まあ、そんな阪急の石嶺の名が刻まれた、下地小学校創立百周年記念式典で披露されました。
この碑はもともと那覇市でサンゴセンターを営む上地真吉が、寄贈を予定したそうなのですが、石の注文に台湾へ行った上地が、現地で王貞治の記録を破る活躍を知り、石嶺に打診して石碑を共同で贈ったということです。ここでもさりげなく台湾が登場しました。
よく見ると、「文字 黄明義 彫 連政輝」と台湾系の名前が刻まれています(もうひとり、寄贈者として列挙されている髙進益の名前もある)。もしかしてもしかして、表の記述を間違えた犯人は、この人たちでしょうか?。
尚、石嶺のプロフィールは那覇市出身と書かれていることがほとんどですが、当時の下地町川満は高千穂の生まれなのだそうです(本人も語っている)。ただ、就学前に那覇へ転居しているため、下地小には通っておらず、勿論、卒業もしていません。その上、記事によると、建碑された当時も下地小へは訪問すらしていません。
時は流れ、阪急がオリックスになり、1993年から宮古島での春季キャンプがスタート(高知と併用)しますが、石嶺は1994年に阪神にFAで移籍してしまうので、初年度しか宮古島へは来島していません。
オリックスキャンプ便り⑧ 石嶺 和彦打撃コーチ(52) 宮古毎日2013年2月12日
また、2013年に森脇浩司がオリックス(バファローズ)の監督に就任した際に、一軍打撃コーチを担当しますが、チーム打率がリーグワーストを記録して一年で解任されてしまいます。そしてこの翌年、2014年を最後にオリックスの宮古島でのキャンプから撤退します(2軍は2015年までおこなったが、現在は宮崎に移転した)。
オリ、宮古島キャンプから完全撤退 仰木監督、イチローら数々の思い出
なんかどうも、つくづく縁のないパターンなのですが、調べた限り、石嶺が下地小を訪れたという記録を探すことができませんでした。果たして石嶺はこの碑のことを覚えているのでしょうか。見たことがあるのでしょうか。訪れたことがあるのでしょうか。もし、詳しくいことを知っている方がいたら、ぜひとも教えてください。
今週末は2月1日。いよいよプロ野球のキャンプインです。島からオリックスが撤退して久しく、県内の球春到来を羨ましげに眺めることしかできない一抹の淋しさがあります。
沖縄プロ野球キャンプ2019 沖縄県スポーツツーリズム
Posted by atalas at 12:00│Comments(0)
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