2019年01月08日
第215回 「新春 石物語-2019-」

あけましておめでとうございます。「んなま to んきゃーん」も気付けば5回目のお正月。まさかまさかの長期連載となっておりまして恐縮です。拙筆ながら、これまでに200を超える石碑をご紹介させて参りましたすが、2019年も変わることなく、一意専心にて島の石碑を巡る旅を邁進させてゆきたいと思います。とはいえオトナの自由研究と称して、ここのところ地味で地道な井戸にまつわる石碑ばかりをとりあげており、少しは読者様のことも考えろよっと云われかねい圧を感じ、無能な頭でひねり出したのが、今回のお正月特番「新春 石物語-2019-」です。なんとなくちょっと変わった石を紹介してみるというムボーな企画ではありますが、さてはて、どんなことになりますやら。。。

島にある石碑(石を使っているから石碑なんだけどね)の大半は琉球石灰岩(トラバーチン)です。御影石などが使われることはあまり多くありません。なぜなら宮古島は火山性の島ではないため、火山由来のそうした石材が産出しないからです。なので、稀に存在する黒御影などの石碑はすべて、外から持ち込まれたモノとなります。
尚、それ以外の素材を用いた石碑もありますが、そのほとんどはコンクリート製です。石碑の多くが、なんらかの築造や改築の記念碑であることから、工事で余った材料で手軽に建立することが出来る上、石工でなくとも碑文を刻むことが出来る点から使われているようです(それ故に、字の掘り込みが浅く、劣化して読むことが出来ないという弊害も時にある)。
もっとも、この「ん to ん」では金属のプレートから、青銅の銅像、アルミのオブジェ、果ては拓本(額装された紙)まで取り扱っているので、ここで定義している石碑はかなりいい加減で怪しいものです。
ということで、怪しさ次いでに今回の「石物語」は自然石に手を出してみました。といっても、いわくいわれのあるシロモノです。あ、でも、ここまで書いて気付いたのてすが、150回記念に特集した「霊石」はほぼ自然石を扱っていますね(野原のみ加工しているようですが)。あと、第59回「人頭税石」も自然石に区分されますね。なんだ、いっぱい掲載してるじゃないですか!。なら、なにも問題ありませんね(ニッコリ)。
さて、前置きが長くなりましたが、まず最初はビマル御獄の畏部(イビ)です。漢字では“美真瑠”と書くようですが、これは音をあてた当て字だと思われます。一番最初にこの御獄を知った時は、ビマルをビルマと勘違いして、なんでミャンマーの御獄?!ととっちらかったりもしました。ビマル御獄はその立地が少々変わっており、その造形にも注目してみたいと思います。
御獄の場所は西里添瓦口。平良市史の御獄編での所在は東与那武岳となっていますが、地図上の位置を詳細に検討すると、瓦口に位置するようです。もっとも、この瓦口は西中(東与那武岳)と西東と底原(御獄のある山を隔てて)の中間地点のようなところにあるという絶妙な御獄なのです。

そんな岩山の麓に洞穴が開いており、参道はその中へと繋がっています(近年、金属製の手すりが整備された)。頭をぶつけないように、少ししゃがみ込むようにして洞穴の奥へと階段を下りると、香炉が置かれた小さな鍾乳洞の広間があります。その中央にビマル御獄の畏部(一枚目の画像)があります。
畏部はズバリ、洞穴の中で育った石筍です。琉球石灰岩が雨水によって石灰分が溶け出して、鐘乳化した天井から垂れる雫の一滴一滴によって生み出された石なので、ある意味では霊石に近い存在かもしれません。
慶世村恒任の「宮古史伝」(初版1927年 新版2008年)で美真瑠御獄は、子方母天太神が生んだ12方の神々のひとりとして、池間島の大主御獄、平良の阿津真間御獄、下地の赤崎御獄や赤名宮と並ぶ存在と書かれています。
また、稲村賢敷の「宮古島庶民史」(P135.1972年)によると、『神名不伝なるも御神体は高さ二尺ばかり、周囲五尺ほどの乳房形の石で民間信仰として御産の神として崇敬している。御神体のある所は広さ五、六坪の鍾乳洞で、御神体の上方には、それと同大の穿穴が峯の頂から御神体の上まで通っている。或いは御神体は大隕石であろうともいわれている』と紹介されています。
子方母天太十二神のひとつであったり、峯の頂まで穴が通っているとか、実は隕石かもしれないとか、なんともやたらとスピリチアル感高めです。そんな霊験もあってなのか、子宝の御獄として知られていますが、それって畏部の石筍がおっぱいみたいだからというだけなのでしょうね。

こうした子宝系の御獄はけっこう島内のあちこちにありますが、あまり知られていないところをもうひとつとりあげてみます。もちろん、そこにも石があります。
場所は宮原学区。東仲宗根添更竹になります。
更竹集落から西に広がる畑の中。未舗装の農道を奥へ奥へと進むと、小さな水路が農道と交差するあたり。この水路は北方にある土底井(第48回「土底村里井戸改修工事」)の脇を流れている小川の上流にあたるもので、水源は裏手の一段高くなっている更竹温泉の方から滲み出しています。
そんな辺鄙なとこにあるのが、アラマラ御嶽です。
御嶽名が示す通りニョッキリと屹立した岩で、まさしくアラなマラです。この御獄は平良市史御獄編にも掲載されていないほどのローカル御獄なので、祀られている神名についも不明で、近年ではめっきり参詣する人もいないようですが、その土地に根付いた信仰というものはとても興味深いものです。


【左 アラマラ御獄の目印となる、農道と水路が交差する処をアラマラの石から見た構図】
【右 土底集落の北端にあるタッチ御獄の祭壇。丸い陽石がすっぽりとはめ込まれた畏部】
蛇足として、北隣の土底にあるタッチ御獄の主神はティンヌマツガニですが、石を神体とした子宝神フッファナス神も祀られています。その石というのがは自然の立石の中央に穴が開いており、陽石が差し込まれています。この陽石についての伝承は伝わっておらず判ってはいません(平良市史御獄編)。

海の神様であるルーグ(龍宮)御獄の祭祀にに関連した祭場、福里のツカサジーという石です。
場所は浦底(福北)漁港の隅にある、ルーグ御獄から続いている浜辺にあります。
ジーとは宮古口で石や岩のことで、ツカサの石ですから、まさに聖なる石といえます。
浜辺には石がふたつあり、ひとつは浜の汀線近くで祭壇となるような位置にあり、ほぼ常に露岩しています。ツカサジーはそこから少しだけ海の中にあって、干潮時にだけ石が露頭します。おそらくルーグ御獄で行われる「ルーグダスキ」の祭祀の時以外は、まったく気づかれることなく、ビーチにあるなんのへんてつもない石ぐらいにしか思われていないことでしょう。
尚、ルーグ御獄での祭祀のルーグダスキは、旧暦の3月に行われ、竜宮の神に豊饒、豊漁を祈願します。また、同時に(イン)サニツも行われるので、浜辺でにぎやかに酒宴を催すそうです(宮古島市史2巻「みやこの祭祀」祭祀編重点地域調査)。

【浦底漁港の隅にある、ルーグ(竜宮)御獄】
やや思い付き含みの今回のネタでしたが、「新春 石物語-2019-」いかがでしたでしょうか。結果的に畏部など拝む対象としての石ばかりになってしまいましたが、よくよく考えてみると、かなりの高確率で山の中にある御獄は、岩を背にした祭壇であったり、石そのものを拝んでいたりするところが数多くあります。集落に近い御獄でも石を畏部として鎮座させてあるところも多く、石をご神体として拝むことは常なのかもしれません。また、機会がありましたら、ちょっと風変わりな石を取りあげてみたいと思います。
【ビマル御獄】
【アラマラ御獄】
【タッチ御獄】
【ツカサジー】
【アラマラ御獄】
【タッチ御獄】
【ツカサジー】
Posted by atalas at 12:00│Comments(0)
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