2018年10月02日
第203回 連載200回突破記念特番「海に消えた道(3) 渡地矼道」

性懲りもなく始めたアルティメット大人の自由研究こと、『んなま to んきゃーん』連載200回突破記念特番「海に消えた消えた道」3部作もいよいよ最終話です。えっ、なんかやってたの?という、すっとぼけたアナタは、まずがーとこちらの佐和田矼道と、加那浜矼道のふたつを是々非々でお読みいただきたい。
さてさて、3部作の3話目ですが、締めのタイトリングも、一応「渡地矼道」と銘打ってみました。けれど、実際にはそこまで矼道だったのかというと、ちょっと厳しいような気もしています。なので厳密なタイトルとしては偽りありで「海に消えた消えた道」とは云い難いかもしれません。だから先に誤っておきます。すみません、ごめんさない。あっ、ついでだから白状しちゃうと、今回の矼道は海ではなく、たぶん川に架かっています。しかも、橋に続く道は海ではなく山に消えました(物理)。はい、すみません、ごめんなさい、申し訳ありません。
ふうっ。謝罪もしたし、これで禊は済んだと思うので、先へと進みましょうか(厚顔無恥)。
「渡地矼道」の渡地。これで「パタラズ」と読みます。難しいですね。けど、この音でどこにあるか、ピンときた方も多いのではないでしょうか。そうです。宮古島の北、島尻と狩俣を結ぶ裏街道「バタラズ農免道路」に架かる「バタラズ橋」のことです。現在は対面2車線の綺麗な舗装道路に改修され、大神島を望む心地よいドライブコースとして人気のルートとなっています。
橋は島尻集落の奥、前の嶺(マエヌンミ/南嶺)の麓(宮古島の脊梁丘脈の東側で、“長墓遺跡”などがある)あたりを水源として流れる“入江川”(本記事のための独自仮称)の河口に架けられています。河口とはいったものの、幅も広く入江とも呼べそうな地形であり、干満の影響を受ける汽水域でもあるため、宮古では数少ないマングローブの植生を見ることも出来る、海とも川とも呼べそうな場所です。


【左 現行の地形図(国土地理院)。と云いたいところだが、なぜか西岸の埋め立てが未完成のまま】
【右 米軍作成の地図(1945)。運悪く折り目で地図が消えかかったところが渡地矼道】 (clickで拡大します)
ちょっと昔話になりますが、ほんの10年位前までは、草が生い茂ったかろうじて1車線ほどのローカル道で、地元の人でも知る人ぞ知るようなとっても地味な農道でした。この頃のバタラズ橋は幅も狭く、低い欄干があるだけの粗雑なコンクリート橋でした。今の快適なドライブコースしか知らない人にとっては、想像も出来ない道だと思います。
ところが、今回のメインタイトルである渡地矼道は、このバタラズ橋のことではありません。昔話にした農道よりも、もっと昔。まだ宮古島での車社会が黎明期だった頃のお話。今の橋の場所よりも少しだけ上流側に渡地矼道がありました。オープニングの写真にはそんな昔の渡地矼道の遺構が写っているのですが判りますか?。
もっとも、「ん to ん」の熱心な読者(いたらという仮定ですが)なら、すでに一度軽く紹介しているので、すでにニヤついているのではないでしょうか。池間線(県道230号線)沿いにある、四島の主の墓の前に建つ「白川氏家譜支流の碑」(第170回)の回で、空中写真の解説つきで位置を示し、これを作ったのは四島の主であると書き殴っていますから、お急ぎの方はそちらをご一読いただければ、今回は終了です。
【四島の主の墓 県道から少し丘に登った場所にあり、池間・狩俣・島尻・大神の四島が見渡せる位置】
基。
自分で自分の首を絞めて、自分で自分の足を引っ張っていますが、200回突破特番を続けます(ついて来てくださいね)。
この渡地矼道は16世紀初頭、四島の主によって作られました。
四島の主は狩俣村の生まれで、童名を百佐盛(ももさもり)といい、幼少のころから天資英明(宮古史伝には天資聡明と書かれている。生まれながらにして才能や知恵があることの意)であったそうです。順不同になりますが、狩俣、池間、島尻、大神の4つの島(村の意。余談ですが、当時は北部全域を西辺と呼んでいました。現在は大浦、福山、明治になって作られた村の西原の3か村を西辺と呼ぶようになっています)の首長に任ぜられた、四島の主の功績を記してみようと思います。
宮古の将は勇猛果敢な人物が多い中で、四島の主は珍しく文系の将で、仲宗根豊見親らが与那国の鬼虎を征伐しに向かった際は、宮古島の留守居役を任されました。
また、狩俣と平良の往還(親道)に井戸と荷降ろし場を整備して、通行する人々に休息の場を提供しました(狩俣中学校の前にある、スガミヌカーの存在だけが、当時の名残を辛うじてとどめています)。
四島の主の名をもっとも有名にしたのは、仲宗根豊見親の命を受けて八重山は西表島(古見)へと赴き、7か月かかって新しい船(うるか船)を建造し、無理難題に近い責務を果たして帰島したことにあります。これにより「古見の主」とも讃えられ、やがて綾語にも詠われるようになります。
そしてそしてお待たせしました。
領内の集落である狩俣と島尻との往来には、島尻の入江を大きく迂回しなくてはならずとても不便であったことから、渡地(わたらじ)矼道と名づけた海中道路と石橋を築いて利便性を向上させました。この造営は前回の加那浜と同様に綾語として残されていますので、今回も紹介しておきましょう。
『渡地積上げのアヤゴ』(宮古史伝より)っと、歌詞を紹介してみましたが、読んでみても加那浜矼道のようにストーリーが強くないので、ちょっと伝わってくるものが少ないですね。
首里天の美おぼけ 玉天の美おぼけ
首里の天子のおかげで 王様のおかげで
狩俣の親なり 島尻原の主なり
狩俣の首長となり、島尻村の首長となり
大神がめかけ添(そへ)へ 池間がめかけ添へ
大神まで領内に入れ 池間まで領内に入れ
あんらでャむすてから 四島でャむ添てから
そうなって見たら 四村を統べるようになったら
渡地(わたらぢ)ば積みあげ 瀬渡(せわたず)ぱ積みあげ
渡地の(橋を)積みあげにかかって
積みあげぱらひからや 築(つふ)いぱらひからや
積みあげてしまえば 築いてしまえば
上や上ほこり 島や島ほこれ
上は上だけに 村人は村人だけに嬉しがった

【「宮古の史跡・文化財」宮国定徳(1975年)より、渡地橋の紹介ですが、すでに現在とあまり変化がありません】
ともあれ、こうして16世紀に建設された渡地矼道ですが、なんと明治になっても生き残っていました。
1882(明治15)年に第2代沖縄県令の上杉茂憲が、県の現況を把握するために各島の視察をした記録をまとめた『上杉県令巡回日誌』は、明治の沖縄の世情や風俗を知ることの出来る一級の史料ですが、県令が島を巡検したルートも記録されおり、当時の交通網や道路状況を垣間見ることができるのです。
この時、宮古島を訪れた県令の様子
(前略)行々不毛ノ原野ヲ経往々牛馬ヲ牧スル処アリ或ハ偶々田畑ヲ拓キタル処アリト雖モ悉ク窪凹ノ地ニ過キス聞ク処ト実際目激スル処トニ因テ見レハ此辺峯巒夥シク髄テ樹木少ク左右海洋二臨ムヲ以テ風甚夕荒ク仮令田畑ヲ拓モ共益ナシ窪凹ノ地ニ田畑ヲ拓キシ処アルラ以テ共風暴キコトヲ知ル(ニ)足り是ヨリ行クコト数丁ニシテ塩浜アリ共積面数百坪ニ過キス而シテ塩浜ヲ通過スレハ直ニ一小海狭アリ石ヲ畳ミ桟ヲ架シ通行ニ便ニス其ニス共桟架ヲ渡り過クレハ再ビ原野ニ出ツ興中ヨリ仰テ右ニ望メハ二三ノ丘壑アリ又行クコト数丁ニシテ狩俣村番所ニ達ス時巳ニ三時ヲ過ク島尻村ヲ距ル七合ナリト云フ(後略)
(『沖縄県史』第十一巻資料編1)
漢文で難しいので、沖縄県教育委員会か発行した、「沖縄県歴史の道調査報告書Ⅷ 宮古諸島の道」(1991)を参照させていただく。
『(島尻の)村番所を出て東海岸沿いに北上、不毛の原野、牛馬の牧場、田畑、塩田をへて渡良瀬の石矼を渡っている。再び原野にでて振りあおげば右手に丘ありというのは、島尻の人びとのいう前ヌ嶺(マイヌンミ)であろう。県道を直進して狩俣村番所まで七合、つまり二・八キロメートルの行程である。』
不毛の原野が二度も出て来るので、当時はきっと寥々とした荒地が広がっていたに違いありません。開墾しても田畑にすることも出来ず、牧場(牧-まき-)として使っていた。そんな感じでしょうか。けど、干潟を利用した塩田があったという記述は注目したいですね
伊良部の佐和田矼道の界隈でも古くから塩田が行われており、塩の専売制や太平洋戦争などによる隆盛を繰り返しつつも、復帰前まで伊良部島の特産として宮古島内に流通していたそうです。現在のバタラズ橋のたもとにも、とある小さな某製塩施設があったりしますので、干潟で作った塩を矼道を経由して流通させるという相性の良さが見える気もします。
話が前後しますが、ちなみにこの時の上杉県令は、10時45分に西原村番所を出発し、正午に島尻村番所に到着して昼食を食べでいます。どういうわけか大浦村には立ち寄っておらず、西原からフズ嶺を越えて大浦を経て、野田山林の東側(南静園方面)を抜けて島尻に続く、通称“野田道”ではなく、現在の県道を経由して島尻に到着しているようです。
県令はその後、島尻から渡地矼道を通って、現在の県道ルートへ復帰して狩俣へ向かっています。帰りは県道を真っ直ぐ南下して平良に向かったようなのですが、車などもちろんない時代の宮古島ですので、県令は輿に乗って移動していたようなのですけれど、帰路の狩俣から平良をおよそ2時間で戻っているます。ざっくり10キロ強の道のりを、輿で2時間ってのはなかなか凄くないでしょうか。


【左 2000年代のGoogleMapより、ほぼ現行の風景】 【右 国土地理院空中写真(1995)。拡張前の島尻港の姿】
地図と空中写真で追いかけてみると、ちいさな発見が色々徒見えて面白いので、新しい年代から遡って見たいと思います。
まずは2000年代に撮影されたGoogleMap。もちろん、よく知っている現在のバタラズ農免道路と、バタラズ橋か映っています。これを基本として見てゆくと、1995年の空中写真では、バタラズ農道の幅が細くなっています。拡幅する前へと戻っています。しかし、どちらもの写真にも渡地矼道の痕跡が見えています。
【下 国土地理院空中写真(1972)】

農道の周辺が耕地整理される前に戻り、集落寄りの道路線形も少し変わっています。現在の島尻マングローブ公園となっているあたりには、木々もなく、ただの入江となっています。もしかすると、このあたりに塩田があったのでしょうか?。そしてなにより大きな変化は、西岸の一帯にあった耕地が、埋め立てされる前へと戻っていました(前述として紹介した現行の地形図は、この部分が埋め立てられていない)。
1963年へとタイムスリップすると、もうこの時代には、バタラズ農免道路(主要な畑道としては、うっすらと形作られてはいる)もバタラズ橋もまだありません。
そして一番の衝撃だったのは、渡地矼道も存在していないことです。正確には両岸の隣接道路はあれど、真ん中の橋(矼道)の部分がありません。
画像に筋が入っていて見た目の状態が決してよくない画像てすが、入手て来た史料でもっとも古い1945年には、ちゃんと渡地矼道があるのです。だから、戦争によって爆撃されたわけではありません(もっともこのあたりには、攻撃目標にするものもありませんが)。では、いったい1945年から1963年までの間に、なにがあったのでしょうか。


【左 国土地理院空中写真(米軍撮影の空中写真 1963)】 【右 米軍撮影の空中写真(1963)】
ふと思い当たったのは、1959(昭和34年)9月に宮古島を襲ったサラ台風でした。このサラ台風は宮古島測候所(現・地方気象台)で908.1ミリバール(mb 1992年に、現在のhPa ヘクトパスカルに切り替えられた)の最低気圧を記録。現在も歴代2位の記録するほどのとてつもない猛烈な台風でした。1966年のコラ(第2)、1968年のデラ(第3)とともに大きな被害を残したことから、宮古島台風と名付けられています。
完全に勝手な妄想に過ぎないのですが、海に近く川の中に直接作られ、中央の流れの比較的強い部分が流失しているということを考えると、あながち間違いではないような気もします。ただ、これを裏付けるだけの資料を探すことはできなかったので、真実については今のところ一切不明です。逆に知っていたらこれは教えて欲しい案件です。
えー、予想に反して、やたらと前置きが長くなっておりますが、ここからが本番?です(前置きだったんかい!)。
今回三部作で唯一、見える遺構も残存しているし、両岸の道もなんとなく残っていそうな、この渡地矼道をなんとかできないかと現地へ捜索に行ってきました。
まずはルートの確認から。空中写真からトレースして図上でルートの復元をしてみました。最初は県道230号の合流地点へ向かいます。四島の主の墓の近くにある畑の境あたりを目標にチェックしてゆくと、畑と畑の間にどんづまりの短い農道を発見。しかも、よく見ると入口に蘇鉄がちょこんと植わっているではありませんか。むむむっ、これはアタリ違いありません(なにを色めき立っているかと云うと、戦時中に軍の作った壕や使用していた井戸や重要な道の分岐などに目印として蘇鉄が植えられていたのです)。農道を畑の奥まで進むも、その続きは藪。道のありそうなところはすでに人跡が失われ、道の形態ではありませんでした。しかし、残っている道の形状を観察してみると、藪に向かってわずかに傾斜がついて登っており、あきらかに道が続いていた痕跡に違いありません。流石に密集したこの藪を切り開いて進むには、季節が暑すぎます(藪凸には、台風一過か冬枯れの時期がベスト)。

場所を変えて、今度はバタラズ農道側の分岐をチェッして見ます。島尻マングローブ公園の入口の少し北、採石場の脇に怪しい道があります。この採石場は入江に突き出した小さな半島にあり、一車線の旧農道時代から存在していました。
道を奥に進んでみると左にカーブして、畑で終わってしまいました。カーブせずにそのままの位置をキープして、目測で直線的に進めてみると、川に向かって下って行くスロープのようになっている密集した藪が見えてきました。そしてそのそばにまたしても蘇鉄が植わっていました。これはもう矼道への入口に間違いないでしょう。
結果的に県道も農道も直接矼道へ抜けることはかないませんでしたが、バタラズ橋から見えている遺構がある以上、道がなくとも直接そこにたどり着くことがてきれば、なんとかなるだろうというやや無謀な選択をして、再び西岸に移動しました。
【左 蘇鉄がお出迎えしてくれる、県道との合流地点。奥の藪が前の嶺の丘脈】
【中 農道側の矼道入口。こちらにも蘇鉄があり、この先が川に向かって低くなっている】
【右 農道側から見た、前の嶺の山。この中を道が登っているらしいけれど・・・】
突入ルートは丘脈の下、かつては入江だった場所を埋め立てて作られた、耕作地に通っている農道を限界まで奥へ進みます。進めなくなったところで正面の藪に頭を突っ込んで、中をのぞき込んでみると、どうやら2メートル弱の小さな崖(入江を堰き止めた場所)になっいて、マングローブが茂った薄暗い濡れた泥地が広がっていました。ここを降りても進んでいけそうにないので、丘脈の麓に沿ってトラバース出来ないかと、斜面側の藪に頭を突っ込んでのぞき込むと、こらちは地べたがちゃんとあって、どうにか先へ進むことが出来そうだったので、やや強引に濃いめの藪を突破して中へと突撃します。
木々の茂った山の中は、畑との境のように日があたらず、植物が茂るには条件はあまりよくないため、藪は薄めなので鎌一本でもなんとか進むことができました。
しばらく斜面をレベルのままに横に進んでゆくと、下の方から丘脈の上に向かって、斜面の角度とは異なる道状の土工が出現しました。土工といっても木々が生えているので全体を見渡すことは出来ないため、本当にそれが土工であって、道の痕跡なのかどうかまでははっきりとしませんでしたが、なんとか一段高いところまで登ることが出来ました。
【左 見えてきた橋脚の遺構。改めて見ると、川の流れが思いのほか大きい】
【右 対岸の埋もれかけている遺構も見えている。遠い。。。】
道のようなそうでないような土工部分から、川のある下の方へと降りて行けそうなので、傾斜のままに降りて行くと、再び藪が密集してきました。どうやら川岸の近くに到達したようです(日の光の入る川のそばも、やはり植物にとっては育ちやすいので藪が濃くなる)。無理矢理に枝の間から顔を突き出して、川面を確認してみようとしたら、目の前の川の中に遺構が見えるではありませんか。興奮のあまり夢中でシャッターを切りながら、遺構への接近ルートを探ってみました。
やや下流にでたことで、遺構を直接目視できるところまでやって来ることが出来ましたが、遺構は橋の橋脚部分のなので、引き潮の時間とはいえ、遺構のそばには川の流れが残っており、接近は容易でないことが判りました。
それでも航空写真や地図にも残っている、海中道路の部分までは接近可能と踏んで、今度は川岸を上流へ移動します。
ところが斜面の土はもろくて崩れやすく、干潟の川床はゴミと浮石で思うよに進めず、その上マングローブなどの生い茂る木々が行く手を阻み、わずかな距離なのに時間を要しました。
【上 積みの矼道遺構に横たわる、コンクリートの構造物。水抜き水路でした】
【左 水抜き水路の上流側石。どこから来たのか、ボートが引っかかっていました】
【中 水路内。「宮古の史跡・文化財」(1975)に映っているモノより小さい感じます】
【右 水路下流側。特に面白みはないが資料として撮っておいたモノ】
どうにかこうにか川に突き出した、海中道路の部分にまでたどり着いたので、遺構に向けで海中道路を進みます。海中道路といっても現在は基礎と思われる石積みの部分が残っているだけで、まったく道路らしさはありません。
ともあれようやく遺構にたどり着いたので、先端部に向けて歩みを進めます。
石積みを歩いてゆくと、目の前を塞ぐ形でコンクリートの構造物が現れました。これはバタラズ橋からも確認できる、水抜きの水路です。
おそらく16世紀以降、改修と改良を重ね、車社会にも対応しつつ維持し続けられてきたものの一部です。コンクリートに年代を示すようなものは見つけられませんでしたが、上流側にボートが一艘、引っかかっていました。また、マングローブの茂みの中を目を凝らしてみると、もう少し上流側に石積みのような集石している箇所があるようにも見えますが、それが何なのか判別することは出来ませんでした。
【左 石積みの遺構。来た道・・・水抜き水路から丘脈側。ゴミが多いです】
【右 水抜き水路から、これから向かう先端をのぞむ。その行く手はマングローブ】
コンクリートの構造物を越えてさらに先へ進みます。しかし、行く手をマングローブの茂みが邪魔をして、これ以上進むのが困難になりました。そこで石積みの下流側の干潟へ降りてみました。マングローブに覆われた突堤状の石積みの先に、遂に遺構が見えました。対岸の茂みの手前にあるもうひとつの橋脚部分(こちらは泥の中に沈みがちで、かなり低くなっている)も見えます。
けれど、石積みに沿って水流がある上に、本流が石積みと橋脚の間を流れているので、泥の海の足元はかなり厳しい状態。あと少しではありますが、ここまで接近できたことでひとまず結果は出せたとします。
【左 石積みの矼道遺構を振り返る。もうこれ以上はマングローブで進めない】
【左 石積みの下流の足元の悪い干潟から、橋脚遺構を眺める】
余談になりますが、撤収時、調子こいてずんずんと丘脈の斜面を登っていたら、突入してきた畑より遥かに上まで登ってしまい、軽く森の中で迷ってしまったけど、サトウキビの畑がちらりと見えたことで、ルートを修正して斜面を下っていったら、農道脇の崖上2メートルほどの場所に出たので、鎌で木立に突き立ててホールドしながら強引に農道まで下って脱出に成功したことを付記しておきます。
【渡地矼道から、バタラズ橋を望む】
今回の特番では海を渡っていた、今はなき矼道を3本紹介しました。すべてが波にさらわれ消えて行った訳ではありませんが、道というのは生き物なので、環境によって知らず知らずのうちに大きく姿を変え、気付けば人の往来が便利になる訳ですが、その一方で捨てられ消えてゆく道もあります。小さな宮古島ではこうした廃道に、凄い歴史があったり、いわれがあったりすることは少ないのですが、それでも当時の生活の中に溶け込んでいた道から、その時の島の人たちの姿を垣間見れるような気がします。
また、機会があったらこうした島にある旧道廃道を紹介してみたいと思いますが、こんな風なのに興味があるという奇特な方なんているのでしょうか。。。
【オマケ史料】
元禄国絵図 琉球国八重山島 国立公文書館デジタルアーカイプス
Posted by atalas at 12:00│Comments(0)
│んなま to んきゃーん