2018年01月16日
第169回 「創立五十周年記念 輝く瞳 夢を追い」

今回ご紹介する石碑は離島の離島。大神島の石碑です。島のサイズは面積が0.24 キロ平米。周囲2.75キロ。人口は約30人(2017年1月現在)と、限界突破集落と化している島ですが、島の名前の通り神秘的なイメージが強い島でもあることから、宮古の人でも島に縁者でもいない限り、まず訪れることがない島と云われています。もっもとも近年は、食事処や宿泊施設が作られ、島の最高所となる74.4メートルの高さにある遠見台(展望台となっている)からの眺望を楽しんだり、手つかずの自然が残る宮古最後の楽園の島として、シュノーケリングなどに訪れる観光客が増えています。
今回はそんな大神島にかつてあった宮古島市立大神小中学校(併置校)に建立されていた、2007年に建立された創設50周年を祝う記念碑です。島唯一の港のそば、集落へと続く一本道「ヤーパシヌンツ」の入口にあった大神小中学校は、惜しまれつつ2011年3月31日をもって廃校となり、現在は校舎も解体され雑草の茂る更地になっています。
大神島の小学校の歴史は比較的新しく、1933(昭和8)年に狩俣尋常小学校の大神分教所として設置されます。最初の生徒数はひとクラス28名、教員は訓導がひとりと、代用教員がひとりだけというつつましいものでした。
戦前戦中とも学校的に特に大きな動きもなく、宮古の学校としては珍しく軍による接収もされていないようです。また、生徒数もほぼ30名前後で推移していたようです(教員も入れ替わりはあるものの2名を維持)。
戦後、1948年に学制改革によって中学校も置かれますが、こちらはなんと平良北中学校狩俣分校大神分教所という分校の分教室という本校からすると孫にあたる中学校でした(翌1949年に狩俣中学校が独立校になり、狩俣中学大神分教所に改称されます)。
1952年には新校舎が建設され、校内に幼稚園も新設されることになります。この頃の生徒数も小学校が30名前後、中学生は15名前後(幼稚園は記録なし)、教員は小学校が2名、中学校が1名となっています。
中学生の生徒数が小学生の半数ということは、小卒で島を出るのかっと、つい早合点してしましたがと、年間の卒業者数が5名前後なので、小学校が6年間、中学校が3年間の就学期間を考えれば、計算上はおかしくありませんでした。
そしてようやくこれで今回紹介する石碑の話をすることができます。大神小創立50周年記念碑は2007年に建立されていますので、独立した1957年が起源となっていました。分教場の設置をスタートにすれば74年、廃校時でも78年とかなり盛れる気がするのですが、気持ち的に分教場と本校では大きく違うものなのかも知れません。はい。濁った瞳ですみません…。
さて、もう少し大神小の沿革史をたどっておきましょう。
1959年9月15日。宮古島台風「サラ」が島を襲います。飲料水タンクと半壊した便所を残して学校施設はすべて失われたそうです。幸いなのは授業に必要な教具や、事務関係の書類や帳簿などは、事前に避難させておいたことで、学校運営に関しての被害は少なかったそうです。
この時の島の被害は全壊家屋13、半壊10、大破7。サパニなど小舟の全損・流失が18、大破4。風と潮によって農作物は全滅、その他にも家畜への被害や島内道路の欠壊など、甚大な台風被害をこうむっていました。それなのに大神小学校では翌16日から学校を再開します。教室がなくなってしまったため、島の民家四軒を間借りして仮設の学校にしてます。このエピソードは島にとって学校を重要視していたのかが、見えるような気がしました。
さらに17日は台風被害に屈せず復興に奮起する決意を固めるため、住民総出で校庭に中秋の観月会を催しています。この時、児童生徒らは遊戯、ダンス、綱引きなどで参加したそうで、ここにも島の人々の学校への思いがあらわれているようです。そしてこのバイタリティは小さな離島ならではアララガマ魂を知らしめてくれた気がしました。
このあと、暫定的な仮校舎を建設するも、再び襲来した颱風(別の)で倒壊してしまいます。その結果、いよいよ恒久校舎の建設に着手することになります。校地の拡張など小さな島にとってはかなり大規模な工事が火急的におこなわれ、8ヶ月後の1960年4月に新校舎が完成しました。
1961年。小学生16名、中学生10名の集団転校が行われます。これは1958年にはじまった、大野越開拓地への入植によるものでした。大神島からは17戸(沿革史では18戸)が移住することになり、当初は戸主である男性のみが単身で入植し、公民館で共同生活をおこないながら開墾し、集落の基盤を整備したところで家族を呼び寄せたました。それが後の高野集落となります。今も集落から一周道路を隔てた丘の上には大神島を遥拝する御嶽があり、畏部(イビ)は大神島から持ってきた石が、(おおむね)大神島に向かって安置されています。
1967年、創設10周年目にして校歌と校章が決まります。
宮古の山なみ色はえて一番だけ掲載しておきますが、なんとなく学校の窓から見える風景をうたっているような気がしました。
白雲流れ海青く
光あふれる学舎は
久遠の理想求めつつ
学ぶわれらの大神校
作詞:合作 作曲:新垣博次
1972年の復帰頃から徐々に島の人口が減りはじめ、1980年代に入ると島の人口がとうとう100名を切ります。時代の変革の波が押し寄せる中、1987年に大神小は創立30周年を迎えます。なにか記念行事も催されたのかもしれませんが、それを知る手がかりを探るには時間が足りず、判ったのは小さな記念碑が校庭の隅に建立されている姿だけでした。
1990年後半に初めて大神島を訪れた時、小中あわせて数名の児童生徒数でしたが、海を借景にしたグラウンドのある小さな学校は、素朴でなんともいいサイズ感でした。また、学校の近くに教員宿舎も健在でしたが、先生方はみな船による通勤で、朝と夕方の便は実質、通勤のため渡船になってしました。確か、11時頃には時刻表にない船便が一便あり、学校への給食を届ける専用便だったと記憶しています。
観光目的で島へ渡っても、見どころもそれほどない島であり、船が出るまで数時間は滞在を余儀なくされます。当時は今のように食堂があるわけでもなく、島唯一の商店は集落の西はずれにあった久貝商店ひとつでした。商店といっても民家の玄関先に小さなショーケースを置いただけのとても小さなお店で、板っぺらにペンキで書かれた看板が無造作に石垣に立てかけられているだけというもの。時間を持て余す中で、さらに時の流れが緩やかになる。そんな雰囲気を持っていました。
島の人口が50名を割り込み、小学校は2006年度から、中学校は2008年度からそれぞれ休校となり、大神島は完全に限界突破集落と化します。そして遂に2011年、学校は復活することなく残念ながら廃校となってしまいました。
駆け足で大神小学校の歴史を紹介してまいりましたが、すでに現地に校舎はなくグラウンドだったところに記念碑の類がわずかに残っているだけなのですが、中にひとつ謎の石碑があります。
開園記念 立志 よく遊びよく学べ 昭和61年4月1日昭和61年は1986年で、大神小30周年の一年前。開園ということは保育園か幼稚園ではないだろうかと推測するのですが、1952年に(旧)新校舎完成と同じくして幼稚園が新設されており、周年数がわずかに合致しません。大神の保育園幼稚園の史料もなく、最後の最後に謎の“開園”の記念碑だけが残ってしまいました。
【関連石碑】
第97回 「大野越開拓記念塔」
第98回 「闘魂-1976‐ 開拓誠心-2008- 団結-2011-」
【参考資料】
島の学びや消える/大神小中学校(2011年12月3日 宮古毎日)
Posted by atalas at 12:00│Comments(0)
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