2016年08月30日
第98回 「闘魂-1976‐ 開拓誠心-2008- 団結-2011-」

先週の「大野越開拓記念塔」から続くストーリーとして、今回は高野集落の石碑をご紹介します。タイトルの「開拓誠心」は高野集落の公民館(高野集落農事集会所)の広場に並んだ石碑のひとつです。

この「開拓誠心」は 2008(平成20)年に建立された記念碑で、入植50周年を前に集落の歴史(後半は土地改良事業について)を書き記した石碑となっています。まずは碑文のご紹介から。
本集落は、農業及び漁業を中心とした地域であり、旧平良市の中心部より東北六キロメートル離れた地点。元大野山林の一角に一九六一年(昭和三十六年)、琉球政府の移住計画により食料事情に悩む、大神島(十七戸)と多良間水納島(十八戸)、宮古本島(五戸)から計四十戸二七五名(昭和三十六年四月、男子百三十七、女子百三十八)の家族が入植し、当時は大野越と呼ばれていたが、同名の集落が存在していることから、集落名を改める必要に迫られ、役員(会長・知念邦夫、総務。狩俣徳蔵、顧問・狩俣喜一郎)によって発案され、昭和三十八年四月二十五日も自治総会の承諾を得て、当自治会名を「野原の如く広々と高くそびえ立つ集落」、高野集落と命名し、旧大仲集落(六戸)を含め現在の自治区が形成されている。
本地区は、一九七二年の本土復帰に伴い、高野地区干拓整備事業促進により基盤整備を始め、農道、畑地かんがい施設等の整備が行われたが、畑かんがい施設等においては、施設の老朽化が進み、施設の利用が困難であり干ばつ時期においては、水不足等により、作物などに多大な影響を及ぼしている状況である。近来技術の発展により、国営地下ダムが建設され高野地区においても平成十五年度に、新たに県営かんがい排水事業が実施され、計画的農業の確立が可能となり今後の農業における後継者育成及び集落の活性化の要因となることを期待する。
土地改良事業に推進尽力された関係機関のご配慮に感謝し農業の発展と集落の未来永遠の繁栄発展を願いここに記念碑を建立する。
平成二十年十一月二十五日
碑文は校正せずに発注したような、怪しい読みにくさがありますが、句読点の加筆を覗き、原文のまま記載しました。前回も参考にした仲宗根將二先生の「近代宮古の人と石碑」(1994・私家本)によると、高野への入植(当時は大野越開拓計画)は平良市の事業とされ、琉球政府は1947(昭和22)年に、集団農場を開設して食糧危機に対処したとされています。
尚、水納島の住人の大半が離島したため、学校の維持が困難になり、休廃校を余儀なくされ、それにともなって更なる離島が進むことになります。
また、気になる記述としては1972年の復帰時の高野地区干拓整備事業というもの。干拓とは海や湖沼などの水面を埋め立てて陸地化することなので、単純に開拓整備事業の記述間違いと考えられまずが、先週の大野越でも低地のために水の出やすい地域で、排水隧道を整備するなど開拓に際して土地改良をしていますので、ただの開拓というよりは、排水事業に重きが置かれていたのではないかと考えられます。
ちなみに大正時代の地図には大野山林の山裾は湿地マークがしっかり記されていますし、終戦直後の米軍作成の地図にも、大野山林には排水路らしきものが書き込まれています(隣接する農地には水色の用水路があり、1947年頃の集団農場と考えられる)。もっと古くにはマラリアの危険が潜む低湿地を、宮原(宮積)の名子が開拓させられていたという史料も散見できます。


【左】大正時代の地形図。現在の高野集落は地図上の大野山林と東仲宗根添と書かれている間の平地あたり。地図内の上の方にある山川と書かれた集落(斜線の四角)は、福山より南で、後の大野越よりは北に位置するが、そのような集落は現在、見当たらない(真の消滅集落はコチラなのではないかと思われるが、現状では資料がない)。
【右】戦後すぐの米軍制作の地形図。網の目のような水路は集団農場と思われ、高野集落はその北側の緑で書かれた大野山林を開拓して作られます。地図の上の方の水色の四角(人工の池のようだが、現在はこの付近には畑しかない)の下側、大野山林を削るように破線が書かれているところが大野越集落。そしてその上方に数軒だけ家が書き込まれているのが、前出の山川集落になる。
集落の東端にある高野集落農事集会所(公民館)の広場に、「開拓誠心」を含むいくつかの石碑が並んでいます。、今回のタイトルでもふれていますので紹介しておきましょう。

一番左の「団結」は、2011(平成23)年に迎えた高野集落への入植50周年を記念した石碑。
「団結」の歴史、記念碑に/高野入植50周年を祝う (宮古毎日 20111024)
そのお隣は「闘魂」。1976(昭和51)年の入植15周年を記念した石碑。50年目の碑とは刻まれた文字の内容に大きな差を感じました。
勝手な妄想ですが、入植して15年。開拓した村を維持するために闘って来て、ようやくひと息つけた頃だっのではないでしょうか。そして50年目は島の都市化の波と、集落の高齢化から、散りかけている求心力を取り戻したいという願いが込められているように感じました。
そして三つめ、今回のメインでご紹介した「開拓誠心」です。
全体図では少し見づらいですが、そのさらに隣にもうひとつ石碑、というか石板があります。
こちらは「開拓誠心」の中でもふれている2008(平成20)年に完成した、県営かんがい排水事業によって建立された、高野集落のあゆみを紹介するもので、写真をふんだんに使って集落の歴史を振り返っており、一見の価値が高いものとなっています(集落の由来を紹介する文中の入植年月日が、高野へと名称変更した年と混同され、昭和38年と書かれている誤植がありますが、年表には正しく昭和36年と記載されている)。


最後は島の集落にはかかせない、御嶽についてふれておこうと思います。
開拓集落である高野の村としての歴史はまだ50年少しと浅いですが、開拓後に開かれた御嶽がちゃんとあります。つまり、古くからあるものと考えられがちの御嶽も、新たに生まれることがあるというケースがここでは見ることができます。
高野の里には、水納御嶽、高野御嶽、ナカドゥイ御嶽の三つの主要な御嶽があります。いずれの御嶽も公民館から一周道路を挟んだ海側の、漁港に降りる道の東側の森に安置されています。
水納御嶽は水納島出身者が、高野御嶽とナカドゥイ御嶽は大神島と平良市内出身の人々が、それぞれ参拝する御嶽となっています(ナカドゥイ御嶽は大神島のウプ御嶽の石をイビとした遥拝の御嶽)。
高野集落。決して大きな集落ではありませんが、水納島と大神島の民俗や歴史とともに移り住んでするので、多良間の伝統行事であるスツウプナカも行われていたりします(近年、休止となっているとニュースで耳にしたので気になります)。
Posted by atalas at 12:00│Comments(0)
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